庶子であったが兄・歓虎丸が早世したため後継者に定められ、永禄3年(1560年)に家督を相続し[2]、都於郡城主となって義祐の後見を受けて伊東家の全盛期を築いた[2]。智勇に優れ性格も温厚であったため父以上に家臣団、民衆から慕われたという。家督相続後も、当主として引き続き都於郡にあり、佐土原城の義祐との二頭政治が行われた。
永禄12年(1569年)、都於郡の岩崎稲荷に参籠中、病にかかって死去[2]。都於郡城中全ての者が剃髪して菩提を弔うという異例の葬儀が行われた。
正室は一条房基の娘・阿喜多で、伊東氏と敵対関係にあった薩摩藩側の史料『本藩人物誌』によれば伊東大炊介の計らいで結婚したという。阿喜多との間には義賢・祐勝・阿虎の方(伊東祐兵正室)をもうけた。