佐々木愚山
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文政6年(1823年)1月11日[2]、仙台藩領の陸奥国牡鹿郡蛇田村[1](現・宮城県石巻市)に生まれる。父は同じく儒者である中田三平(名は謙、号は淡斎)[4]。父は仙台大町に住んで門弟に学問を教え、豪商・佐藤助五郎(のち仙台藩郡奉行)の顧問として親しく交わったが、文政11年(1828年)に死去した[4]。祖先を佐々木盛綱であると称するが詳細は不明[要出典]。
仙台を離れて下野国の足利学校の訓導となった後、上野国に移り安中藩校・造士館で学問を講じた[1]。七日市藩、安房勝山藩支領白川でも教授を行ったという[2][3]。
明治維新により職を解かれ、榛名山麓群馬郡本郷村(現・群馬県高崎市本郷町)で私塾「白烏堂」を開いた[1]。門人の数は3千人とも言われる[1]。群馬県神道事務局や榛名神社教会で教授を行い[2]、少教正として黒髪山神社などの神社に奉祀した[1]。
明治維新によって四民平等となったからには士族・平民という呼称は不要であり、勲功者を遇するのに華族を設けるとしても華族令による五爵位は不要であるという持論を有していた[5]。また西洋人が行う挨拶の握手を高く評価し、叩頭・拝手などは真の礼ではないと批判した[5]。
著書に安政6年(1859年)『日新録』があり、足利学校祭主・謙堂が序を、安中藩の太山融斎が跋文を書いている[1]。
明治29年(1896年)9月14日死去[5][2][1]。74歳。