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佐々木道彭

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佐々木 道彭(ささき どうほう)は、南北朝時代の武将。室町幕府出雲国守護代、北朝三河守。名字は上郷とも号す。山名氏に仕え、和泉国守護・山名氏清と共に平尾合戦(1382年)で南朝の名将・楠木正儀を破り、南北朝内乱の終結の一翼を担った。後、軍記物語『明徳記』の有力武将「上郷入道」や、系図類に伝わる上郷氏の祖「上郷 通清」(かみのごう みちきよ)のモデルになった。通清は塩冶高貞(『太平記』『仮名手本忠臣蔵』で著名)の甥とされ、また、15世紀初頭に塩冶氏を再興した後塩冶氏の祖・塩冶満通の父と伝わる。そのため、塩冶 通清(えんや みちきよ)とも呼ばれる。

生誕 不明
死没 不明
別名 通称:沙弥道彭(しゃみどうほう)、参河入道(みかわにゅうどう)
名字:上郷(かみのごう)
諱:伝・通清(みちきよ)
『明徳記』:上郷入道
概要 凡例佐々木 道彭, 時代 ...
 
佐々木 道彭
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:沙弥道彭(しゃみどうほう)、参河入道(みかわにゅうどう)
名字:上郷(かみのごう)
諱:伝・通清(みちきよ)
『明徳記』:上郷入道
官位 北朝:三河守
幕府 室町幕府出雲国守護代
主君 山名義幸ほか山名氏一門
氏族 上郷氏(出雲佐々木氏庶流、塩冶氏後裔?)
父母 父:佐々木三河前司?(伝・塩冶時綱)
兄弟 不明(系図類では塩冶義綱ほか兄多数[1])
子 伝・塩冶満通(後塩冶氏祖)、伝・塩冶駿河守、伝・塩冶備中守
特記
事項
本貫は出雲国神門郡上郷(島根県出雲市上島町付近)
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出自

出雲国(島根県東部)の守護職は鎌倉時代においては宇多源氏の名門・佐々木氏の庶流である塩冶氏が相伝した[2](出雲源氏)。しかし南北朝時代初期の興国2年/暦応4年(1341年)、塩冶高貞は室町幕府の最高指導者である足利直義(初代将軍・足利尊氏の弟)に謀反の疑いをかけられて自刃し[2]、一族も多くの者が誅殺された[3]。謀反の真偽は諸説あるもの、亀田俊和は謀反が事実だった可能性は高いのではないか、と主張している[2]。

塩冶氏没落事件は、幕府執事・高師直悪玉論の一貫として軍記物語『太平記』(1370年頃)にも大きく取り上げられ、同書では師直の讒言が原因だったと描かれるものの、歴史上で塩冶氏失脚に師直が関わっていたことを示す一時史料はない[2]。『太平記』の創作は、江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』(1748年)では赤穂事件(1701年)の仮託先となり、赤穂浪士たちの主君・浅野長矩(浅野内匠頭)は高貞に擬された[2]。

以降、南北朝時代の間は、佐々木氏の中でも本流に近い京極氏と、足利氏一門で新田氏庶流の山名氏が、政治状況によって交代で出雲を領国としていた。

しかし、塩冶氏の中には幕府による誅殺を免れた者たちもいた[3]。同時代史料である『園太暦』貞和元年(1345年)8月29日条に、尊氏の天龍寺供養に供奉した武将として、「佐々木三河前司」という人物の名が見える[3]。原慶三は、この人物を、系図類に高貞の弟で上郷通清の父として伝わる塩冶時綱に相当する人物としており、以降、三河守の官職が塩冶氏惣領を示す地位になったのではないかと指摘した[3]。この後、出雲国の佐々木某はたびたび山名氏と共に現れるため、出雲佐々木氏は山名氏の被官(家臣)になって存続する道を選んだものとも想像される[3]。

なお、塩冶高貞の遺児・塩冶冬貞も正平17年/康安2年(1362年)3月8日までは同時代史料で確認できるが、主君と思われる足利直冬(直義の養子・後継者、尊氏の非認知子)の没落(1363年)の後から急に歴史から姿を消しており、長谷川博史の推測によると、おそらく本来の嫡流である高貞直系の子孫はこの時に絶えたと思われるという[4]。

生涯

同時代史料等から

康暦の政変(1379年)で管領・細川頼之が失脚すると、出雲国の守護も京極高秀(バサラ大名として知られる佐々木導誉の嫡子)から山名義幸(有力武将・山名氏清の甥)に交代した[5](京極高秀も山名氏一門も同じ反細川派だが、高秀はあまりに反対活動が急進的すぎたため将軍・足利義満から不興を買っていた)。この時、政変の混乱に伴う戦乱で翌1380年に塩冶氏の弟筋の氏族にあたる富田氏が没落しており、軍記物語『明徳記』で富田城(月山富田城)を拠点としたのが富田氏ではなく、上郷入道(佐々木道彭)と塩冶駿河守の親子だったと描かれているのも(後述)、この事情を反映したものと思われる[6]。

佐々木道彭が現れる史料上の早い例としては、弘和元年/康暦3年(1381年)に、意宇郡佐草社(島根県松江市八重垣神社)を安国寺に安堵した武将として「沙弥道彭」の名が見える(康暦3年2月29日沙弥道彭安堵状)[3]。

当時、楠木氏棟梁で南朝和平派代表の楠木正儀(楠木正成の三男)は、強硬派の南朝・長慶天皇との不和から室町幕府に帰順していたが、康暦の政変で後ろ盾の頼之を失ったことから、南朝に帰参した[7]。これに応じ、弘和2年/永徳2年閏1月24日(1382年3月9日)、山名氏の中心的武将である山名氏清は、河内国平尾(大阪府堺市美原区平尾)で正儀を攻めて勝利した(「三刀屋文書」永徳二年三月日付須波部新左衛門入道軍忠状(以下(「須波部軍忠状」))、「通法寺縁起」永徳三年七月日通法寺別当実尊言上状[8])[7]。

「須波部軍忠状」によると、この平尾合戦には、「佐々木参河入道道彭」という武将が、三刀屋氏(出雲諏訪部氏)の武将・須波部新左衛門入道らを率いて参戦した[3]。生駒孝臣によると、同時代史料で確実に確かめられる幕府と楠木氏の戦いはこの合戦が最後であり(合一後の後南朝を除く)、いわば畿内における南北朝の内乱の終結となる戦いであるという[7]。

佐草家文書の「杵築大社造営覚書」(応永19年(1412年))によると、元中3年/至徳3年(1386年)に山名氏の守護代として杵築大社遷宮の奉行を務めたのは「守護殿代上郷殿」だったという[3]。川岡勉は、活動の時期・職責からして、この出雲守護代の上郷某は、「沙弥道彭安堵状」や「須波部軍忠状」の佐々木道彭と同一人物と考えられるとしている[3]。本貫(名字発祥の根拠地)である出雲国神門郡上郷は「かみのごう」と訓み、島根県出雲市上島町付近と推測される[9]。当地は斐伊川中流域左岸にあり、室町時代ごろから斐伊川水運の要衝となる重要拠点だった[9]。

『明徳記』

その後、強大になりすぎた山名氏の力を削減するため、第3代将軍・足利義満は山名氏を挑発、それに応じて元中8年/明徳2年12月(1392年1月)に山名満幸(山名氏清の甥で婿)と氏清は明徳の乱を起こした。

軍記物語『明徳記』(初稿本は1393年ごろ?)では、このとき乱の首謀者・満幸に守護代として仕えていたとされる「塩冶駿河守」という武将は、「上郷入道」という人物(=佐々木道彭)の息子だったと物語られている[10]。はじめ、上郷入道と塩冶駿河守の親子は、幕府軍に備えて富田城(月山富田城)に立て籠もった[10]。しかし、幕府追討軍の京極高詮(高秀の嫡子)の部下である隠岐五郎左衛門尉が投降を促すと、父の上郷入道(佐々木道彭)はそれに応じて京極氏に降ったが、息子の塩冶駿河守は投降を良しとせず富田城のふもとにある城安寺で自刃したと描かれている[10]。

近世系図類との比較

近世系図類は、塩冶高貞の弟の一人に「時綱」という人物がいるとし、時綱の息子の一人が「通清」という人物であるとしている[3]。また、正平19年/貞治3年(1364年)に杵築大社(出雲大社)に塩冶郷の田地1町を寄進した人物に「遠江守義綱」という人物がおり、系図類ではこの人物も通清と同じく時綱の子[4](通清の兄[1])とされる。

この「通清」は、内閣文庫所蔵「佐野本系図」中の「隠岐塩冶冨田流」と題する系図によると、「山名時氏領出雲伯耆故為家老」「号上郷 従五位下 三河守」という[3]。

また、『続群書類従』所収「佐々木系図」(浅羽氏家蔵本)は、「上郷三河法名道圓」とする[3]。軍記物語『明徳記』で上郷入道の子とされる塩冶駿河守も、同系図では通清の子とされている[10]。

以上のように「上郷」の名字が共通する点、山名氏の被官とされる点から、川岡勉は、この上郷通清(塩冶通清)は一次史料の佐々木道彭(上郷道彭)と同一人物であろう、と指摘している[3]。

後裔

明徳の乱によって山名氏が没落すると、塩冶氏もいったん出雲国での力をほとんど失い、出雲国の支配を完全にした京極氏との関係改善を進めつつ、足利将軍家の奉公衆として新たな道を歩んだ[11]。ただし、本貫の地である塩冶郷周辺(島根県出雲市塩冶町周辺)には一定の実権を保っていたと思われる[11]。また、応永2年(1395年)、京極氏と「塩冶備中守」という人物の間の書状が残り、京極氏側の譲歩からすると、出雲国国内の社家奉行としては独立勢力的な権益を持っていたと考えられる[11]。近世系図類でも、上郷通清(=佐々木道彭)の子で塩冶駿河守の弟として「備中守」という人物がいたとされ、それに相当する人物と思われる[11]。

塩冶高貞の没落後に、はじめて塩冶氏惣領家として頭角を表した一族の史料上の初見は、「八幡社参記」(『新校群書類従』巻第廿七)であり、応永19年(1412年)8月15日、「衛府侍」を務めた武士として「佐々木塩冶五郎右衛門尉満通」という人物が見える[12]。以降、この塩冶満通の系統が塩冶氏嫡流となり、幕府奉公衆三番衆として安定的な地位・実力を保った[12](後塩冶氏[13])。この満通は、系図類では上郷通清(=佐々木道彭)の息子とされており[14]、庶家であり一旦は塩冶氏から分かれたはずの上郷氏の系統が惣領家になったことについて、長谷川博史は塩冶一族内部の分裂・抗争は激しかったことが窺われるとしている[12]。

奉公衆として活躍した後塩冶氏は、豊富な経済力・縁戚関係を武器に15世紀末には守護代・尼子氏に匹敵するほどの大勢力となる[13]。しかし、永正15年(1518年)に尼子経久の3男が塩冶興久として塩冶惣領家の養子に入っていることから、経緯不明だがこの時までに尼子氏に降ったと思われ、その興久も天文元年(1532年)8月に父に誅殺されたことで滅んだ[13]。

道彭の名字を継いだ上郷氏の存在は、戦国時代の天文8年(1539年)に、「塩冶上郷兵庫助泰敏」という人物が確認でき(「金厳山岩屋寺快円日記」(『岩屋寺文書』))、鉄産業を通して奥出雲の国人領主・三沢氏(出雲三沢氏)と結びつきがあったと思われる[9]。しかし、やがて惣領家の後塩冶氏の衰退と共に衰え、所領も毛利氏に奪われたと思われる[9]。

脚注

出典

関連項目

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