佐藤朝生

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佐藤 朝生(さとう ともお、1907年明治40年〉5月14日 - 1999年平成11年〉 12月4日[1])は、日本内務官僚人事院事務総長(初代)、総理府総務副長官位階正三位

大正13年(1924年旧制府立一中4年修了[2]昭和2年(1927年旧制第一高等学校、昭和5年(1930年東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省へ入省。昭和11年(1936年)内閣書記官、昭和13年(1938年内閣官房会計課長、昭和20年(1945年)内閣官房総務課長に就任する。

鈴木貫太郎内閣では迫水久常内閣書記官長の下で終戦事務に関わる。ポツダム宣言後の8月1日に、内閣情報局総裁の下村宏が、久富達夫次長から「終戦するには、陛下に自らマイクの前に立って放送していただく。陛下が国民に直接終戦を宣言させる。」という発案を受ける。同級生だった川本信正秘書官を通じて、下村から昭和天皇への上奏を要請されると、軍部の詮索に注意しながら8月8日の拝謁を手配した[3]詔書の公布と同時に、外務省連合国に対して、ポツダム宣言無条件受諾の電報を打つことになっていたが、詔書が遅れていたために松本俊一外務次官から三十分ごとに催促の電話連絡を受けながら、外務省、宮内省、閣議の席へ連絡を取り続けた。清書された詔書に重大な欠落を見つけ、書き込むよりほかにないと決断、佐野小門太理事官が脱落した文字を脇かっこをして、小さな文字で挿入して完成された異例の詔書を、閣議中の鈴木貫太郎首相に届けて御前会議が行われた[4][5]

首相官邸に泊まり込んでいた8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が首相官邸を襲撃後、小石川の鈴木貫太郎首相邸へ向かったため、自宅に帰っていた鈴木首相に電話し、官邸の襲撃を報告し、すぐ逃げるよう伝えた。鈴木邸は襲撃されたが、鈴木首相は警護官に間一髪救い出された(宮城事件)。正午、昭和天皇による玉音放送がラジオで放送された[6][7]

東久邇宮内閣第1次吉田内閣片山内閣では連合国軍最高司令官総司令部(GHQ) との折衝に明け暮れる[8]。東久邇宮内閣で重光葵外相が辞任するため、緒方竹虎内閣書記官長が、吉田茂へ後任外相就任要請の使者を出す。首相官邸に出向いた吉田は外相就任を受託して親任式を行うことになったが、吉田は黒い靴を履いていなかったため、朝生の靴を借用して親任式に臨んだ[9]

昭和23年(1948年人事院初代事務総長に就任、浅井清佐藤達夫の歴代総裁の下で10年間務める。在任中佐藤栄作内閣官房長官、佐藤達夫とともに国家公務員法の大改正、スト規制法をつくりあげた。

昭和33年(1958年)6月、同郷・熊本県選出の松野頼三総理府総務長官に引っ張られて総理府総務副長官に就任。松野頼三、福田篤泰藤枝泉介小平久雄の4代の長官に仕え、ILO、東京オリンピック誘致、交通対策を推進、伊勢湾台風の現地対策本部副本部長として毎日被災地を歩いた[10] 東京オリンピック組織委員会次長として、おもに財政面を担当、東京オリンピック成功の陰の力となって働く[11]

昭和40年(1965年) 全国町村会事務局長に就任、札幌冬季五輪組織委員会事務総長を務め、沖縄協会会長の立場から、沖縄国際海洋博覧会組織委員会にも副会長として関わった[12]。札幌冬季五輪組織委員会の競技部競技課の平主事として働き、朝生の要請で沖縄海洋博の実行委員も務め、障害者スキーの支援に関わった三笠宮寬仁親王は、朝生は最高のボスだったと自著に記している[13]

昭和52年(1977年)から北方領土問題対策協議会会長として、「北方領土の日」を制定、政府がやる外交交渉の支えになるのは国民世論だとして、正しい主張を貫いて両国のわだかまりである北方領土問題の解決をすることが、日ソ両国の真の友好状態を作り上げる前提であるとしている。国際児童年の集中記念行事として愛知青少年公園で「世界と日本のこども展」を開催した [14]

1999年逝去。死没日付をもって従五位から正三位に進階した[1]

制度作りに関わった、戦中戦後の内閣官房における文官制度改革や憲法改正についての検討資料が、昭和49年(1974年)7月と昭和62年(1987年)9月の二回にわたって国立公文書館へ寄贈され、「佐藤朝生関係文書」として保管されている[15]

家族

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出典

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