鳥海 (砲艦)

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鳥海
竣工後間もない「鳥海」(1889年から1891年頃、佐世保と推定)#日本海軍全艦艇史(1994)上巻p.432、写真No.1033の説明
竣工後間もない「鳥海」(1889年から1891年頃、佐世保と推定)[3]
基本情報
建造所 石川島造船所[4]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 砲艦[5][6]
級名 摩耶型砲艦[7]
建造費 214,720円[8]
母港 竣工時:横須賀[9]
佐世保(1889年5月28日-)[9]
艦歴
計画 明治16年度計画[7]
発注 1885年3月2日製造契約締結[9]
起工 1886年1月25日[9]
進水 1887年8月20日[9]
竣工 1888年12月27日[9]
除籍 1908年4月1日[10]
その後 佐世保海兵団附属雑役船舟[9]
1911年5月23日廃船[11]、翌年売却[12]
要目(竣工時[13]
排水量 624英トン
垂線間長 47 m
最大幅 8.200 m
吃水 前部2.650 m
後部:3.250 m
出力 700馬力
速力 計画:10ノット[14]
燃料 石炭:68英トン
乗員 1886年1月定員:115名[15]
兵装 21cm克砲 1門
12cm克砲 1門
1インチ4連諾典砲 2基
搭載艇 カッター1隻、ギグ2隻、ディンギー1隻[16]
その他 船体:
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鳥海(ちょうかい、旧仮名:てうかい)は、日本海軍砲艦[17]。 艦名は秋田山形県境の鳥海山にちなんで命名された[17][18]

石川島造船所で建造[4]1887年に進水した[9]砲艦[5]。 「愛宕」と同型(摩耶型砲艦[7])になる[19]

朝鮮半島清国沿岸の警備任務に多く従事し[20]日清戦争では第三遊撃隊の1艦として威海衛攻略作戦に従事した[18]北清事変に従軍。 日露戦争では第三艦隊所属で、主に沿岸防御に従事した[18]1908年除籍[10]。 以後は佐世保水雷団の練習船となり[9]1911年廃船[11]、 船体は翌年売却された[12]

艦型

他艦との相違点

  • 船体は「摩耶」と同じ[13]
  • 1888年(明治21年)1月に推進器の改造が決定した[21]青銅製3翼グリフィス型[22]で直径8 ft 6 in (2.591 m)、ピッチ9 ft 6 in (2.896 m)、ピッチ変化量9 ft (2.743 m)から10 ft (3.048 m)[23]。別資料によると直径2.445m、ピッチ2.846m、翼面積は1個当たり1.453平方メートル[24]
  • 竣工時の兵装は21cm克(クルップ)砲1門、12cm克砲1門、1インチ4連諾典砲2基だった[13]。重量の関係で艦首主砲(21cm砲)の搭載位置は「摩耶」の搭載位置と比較して若干後方へ移動した[25]

要目

製造契約時の要目は以下の通り[26]

  • 垂線間長:154 ft 3 in (47.015 m)
  • 最大幅:26 ft 11 in (8.204 m)
  • 船倉の深さ:13 ft 7 in (4.140 m)
  • 吃水:前部8 ft 8 in (2.642 m)、後部10 ft 8 in (3.251 m)
  • 機関:2軸、横置連合レシプロ
  • 出力:自然通風700馬力、強圧通風950馬力
  • 速力:10ノット[14]

変遷

  • 1889年(明治22年)5月16日に搭載艇を「摩耶」「愛宕」と同じカッター2隻、ギグ2隻に変更することが認許された[16]
  • 1894年(明治27年)時の兵装は21cm克砲1門、25口径12cm克砲1門、25mm諾式4連装機砲2基[7]

公試成績

実施日種類排水量回転数出力速力場所備考出典
1888年12月6日強圧通風右舷高圧:217.68
同低圧:112.25
左舷高圧:不明
同低圧:132.44
平均7.99ノット竣工前の試運転[27]
公試140rpm744馬力10.33ノット[24]
強圧通風全力140rpm747馬力10.86ノット竣工後の公試[28]

艦歴

建造

1885年(明治18年) 1月頃に「愛宕」と同型の砲艦を石川島造船所で1隻、小野浜造船所で1隻(後の「摩耶」)製造することが決定し[19]、 3月2日に石川島造船所と製造契約を締結[9]、 製造期限は23カ月[26]、 契約金額は164,500[29]、 または162,830.94円[30]。 3月5日「鳥海」と命名された[9]。 艦名候補として榛名ハルナ赤城アカギ妙義ミャウギ(みょうぎ)、武甲ブカウ(ぶこう)、葦穂アシホ磐梯バンダイ飯豊イヒデ(いいで)、鳥海テウカイ(ちょうかい)があった[31](読み仮名は全て旧仮名遣い、括弧内は現代仮名遣い)。 1886年(明治19年)1月25日起工した[9]。 5月には製造期限(契約時は明治19年12月まで)延長の申し出、6月には製造費増額(196,643.94円に増額[30])の申し出が石川島造船所から提出された[32]1887年(明治20年)8月20日命名進水[9][33]1888年(明治21年)5月18日横須賀鎮守府所属とされた[9][34]。 12月6日試運転を施行、標柱間(1往復)での平均速力は7.99ノットだった[27]、 12月27日品海で造船所から鳥海艦長品川四方一へ引き渡し(竣工[9])、12時30分に国旗を掲揚した[35]

1889年

1889年(明治22年) 5月28日佐世保鎮守府所轄航海練習艦に定められた[9]。 12月26日佐世保鎮守府警備艦に指定された[9][36]

1890年

1890年(明治23年) 1月6日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[20]。 8月23日第一種に指定[9]。 10月4日「鳥海」は長崎港に帰国した[20]

1892年 - 1893年

1892年(明治25年) 8月20日朝鮮国警備のために佐世保を出港[20]1893年(明治26年) 7月25日佐世保港に帰国した[20]

1894年

1894年(明治27年) 4月4日練習艦の役務を解かれ[37]、 5月23日予備艦に指定[38]、 同日第1予備艦に編入[39]、 第1予備艦の間は定員67名とされた[40]。 6月5日予備艦だった「鳥海」は警備艦に指定された[41][42]、 6月10日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[20]。 7月19日常備艦隊に編入された[43][42]

日清戦争

日清戦争では旅順大連威海衛攻略作戦等に参加。

1895年

1895年(明治28年) 9月10日常備艦隊から除かれ、西海艦隊に編入された[44][42]。 11月15日西海艦隊から除かれ、佐世保鎮守府警備艦に定められた[42]。 11月23日佐世保港に帰国した[20]

1896年

1896年(明治29年) 3月16日常備艦隊に編入された[42]。 3月17日に朝鮮国警備のため佐世保を出港[20]、 8月27日竹敷に帰国した[20]。 10月21日役務を解かれた[42]

1897年

1897年(明治30年) 3月8日第1予備艦とされ、4月12日常備艦隊に編入された[42]。 5月8日朝鮮国警備のために佐世保を出港した[20]

1898年

1898年(明治31年) 1月19日尾崎に帰国した[20]。 1月28日常備艦隊より除かれ、第2予備艦に定められた[42]。 3月21日類別等級を二等砲艦とされた[42]。 5月3日警備艦兼練習艦に定められた[42]。 8月2日常備艦隊に編入された[42]。 9月4日韓国警備のために佐世保を出港した[20]

1899年

1899年(明治32年) 3月11日竹敷に帰国した[20]。 5月3日常備艦隊から除かれ[42]、第1予備艦に定められた[45]。 6月17日佐世保鎮守府艦隊に編入された[45]。 9月29日常備艦隊に編入された[45]。 10月16日に清国警備のために佐世保を出港した[20]

1900年

1900年(明治33年) 5月15日佐世保港に帰国[20]、 5月20日役務を解かれ、同日第1予備艦に定められた[45]

北清事変

1900年(明治33年) 8月11日常備艦隊に編入された[45]。 8月27日佐世保を出港[20]北清事変では大沽方面の警備に従事した。 12月15日佐世保港に帰国した[20]。 12月18日役務を解かれ、第2予備艦に定められた[45]

修理

1901年(明治34年) 12月に従来のボイラーが老朽化のため、佐世保造船廠に於いて同形式の新ボイラーと交換された[28]1902年(明治35年) 1月28日第3予備艦に定められた[45]

1903年

1903年(明治36年) 1月23日第1予備艦に定められた[45]。 6月22日常備艦隊に編入[46]、 翌23日居留民保護の為に清国派遣が命令された[46]。 7月14日北清警備のために佐世保を出港[20]、 9月14日佐世保港に帰国した[20]。 10月23日居留民保護の任務が解かれ、帰国命令が出された[46]。 12月28日第三艦隊に編入された[46]

1904年

1904年(明治37年) 1月29日韓国南岸の警備のために竹敷を出港、2月2日竹敷に帰国した[20]

日露戦争

2月6日日露戦争開戦[20]。 「鳥海」は2月12日尾碕を出港[20]、 5月26日、砲艦「筑紫」とともに対地支援射撃を実施して陸軍第2軍(司令官:男爵奥保鞏大将)の南山攻撃を援護したが、ロシア軍南山砲台から反撃を受け艦長林三子雄中佐が戦死した。 8月からの旅順攻略作戦に参加。

1905年(明治38年) 1月25日神ノ浦に一時帰国[20]、 3月29日神ノ浦を出港[20]、 4月18日尾崎に一時帰国した[20]。 6月14日第四艦隊に編入された[46]。 7月6日鴛泊港を出港[20]樺太作戦に参加、 8月1日小樽港に帰国した[20]。 8月20日第四艦隊から除かれ、警備艦に定められた[46]。 10月16日終戦となった[20]

1905年 - 1906年

1905年(明治38年) 11月4日旅順鎮守府司令長官の指揮下に入った[46]

1906年(明治39年) 2月8日遼東半島警備のために神ノ浦を出港[20]、 8月4日佐世保港に一時帰国[20]。 8月9日佐世保を出港、引き続き遼東半島の警備任務に就いた[20]。 11月5日旅順鎮守府司令長官の指揮下から除かれ、同日第2予備艦に定められた[46]。 11月18日薄香港(長崎県平戸市)に帰国した[20]

除籍後

1908年(明治41年) 4月1日除籍[10][46]、艦艇類別等級別表からも削除された[47][48]。 同日雑役船舟とされ、練習のために佐世保海兵団の附属とされた[48]。 同地で五等機関兵の実地訓練等に使用された[49]

1911年(明治44年) 4月1日「鳥海」は佐世保海兵団から還納の上、廃船とする訓令が出された[48]。 5月23日廃船[11]。 12月21日売却訓令[50]。 翌1912年(明治45年)3月5日に売却が報告された[12]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 品川四方一 少佐:1888年5月14日 - 1891年12月14日
  • 伊藤常作 少佐:1891年12月14日 - 1893年10月12日
  • 上村彦之丞 少佐:1893年10月12日 - 1894年6月8日
  • 東郷正路 少佐:1894年6月8日 - 1895年1月30日
  • 小倉鋲一郎 少佐:1895年8月27日 - 1897年2月4日
  • 中尾雄 少佐:1897年2月18日 - 1897年10月8日
  • 矢島功 少佐:1897年10月8日 - 1897年12月27日
  • 宮岡直記 中佐:1897年12月27日 - 1898年10月1日
  • 藤井較一 中佐:1898年10月1日 - 1899年6月17日
  • 高橋助一郎 中佐:1899年6月17日 - 1900年5月20日
  • 中村貞邦 中佐:1900年8月11日 - 1901年2月18日
  • 森義太郎 中佐:1903年6月22日 - 1903年11月5日
  • 山澄太郎三 中佐:1903年11月5日 - 1904年3月29日
  • 林三子雄 中佐:1904年3月29日[51] - 1904年5月26日(戦死)
  • 広瀬勝比古 中佐:1904年5月 - 1905年1月7日
  • 牛田従三郎 中佐:1905年1月7日 - 1905年8月5日
  • 高島万太郎 中佐:1906年9月28日 - 1907年2月28日
  • 中野直枝 中佐:1907年2月28日 - 1907年7月1日
  • 高木七太郎 中佐:1907年7月1日 - 1908年2月20日
  • (兼)松永光敬 中佐:1908年2月20日 -

脚注

参考文献

関連項目

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