何焯

1661-1722, 清代前期の学者。字は屺瞻、号は義門。「義門讀書記」撰 From Wikipedia, the free encyclopedia

何 焯(か しゃく、1661年 - 1722年)、潤千、のちに屺瞻[1][2]元友、晩年は茶仙[3]中国清代前期の学者、書法家。江蘇省長洲(現在の蘇州市)の人[1][4]

生誕 1661年
江蘇省長洲(現:蘇州市
死没 1722年
職業 学者、書法家
活動期間 清朝初期
概要 か しゃく 何 焯, 生誕 ...
か しゃく
何 焯
『清代学者像伝』より
生誕 1661年
江蘇省長洲(現:蘇州市
死没 1722年
職業 学者、書法家
活動期間 清朝初期
代表作 『義門読書記』
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祖先は元の元統年間(1333年1335年)に「義行」(優れた行い)によって門彰されたことから、自身の書塾に「義門」の二字を冠し、学者らから「義門先生」と呼ばれた[3]

経書史書諸子百家に精通し、門下生は数百人にのぼり[1][4]康熙時代の「4人の学者」としても知られている[5]

弟子に歴史学者の陳景雲中国語版などがいる[1][3]

生涯

誕生から任官まで

順治18年(1661年)、長洲県(現:江蘇省蘇州市)に生まれる[1]

康熙24年(1685年[6]、抜貢生(選抜された優秀な学生)として入京すると、尚書徐乾学祭酒翁叔元中国語版に門生として迎えられた。しかし何焯は、その剛直な性格ゆえに事あるごとに直言・反論したため、ついに両名と仲違いし[注釈 1]科挙では振るわず、40歳になっても官位を得ることができなかった[1][6]

康熙41年(1702年)、直隷巡撫李光地中国語版により「在野の才人」として召し出され、「南書房中国語版」での勤務がはじまる[1][6]

官界での活動

康熙42年(1703年)3月、康熙帝から挙人(地方試験である郷試の及第者)の資格を賜り、会試(中央試験)に臨んだものの落第。しかし学問優秀として皇帝から進士(会試及第者)の資格を賜り[6]殿試(最終試験)に合格[7]庶吉士(官吏見習い)に選出されると、引き続き「南書房」に勤務した[1][6]

康熙45年(1706年)、「文義荒疏」(文章が疎かである)との理由で、庶吉士の修練期間を延長されるが[8]、それからほどなくして、康熙帝の第八皇子・胤祀の邸宅にて侍読(教育係)に採用され、「武英殿」の纂修(編集官)を兼任した。しかし3年後、父の死去により官を辞して故郷へ戻った[1][6]

再任と失脚

康熙51年(1712年)、再び李光地の推薦により召し出され、二度目の「武英殿」校書(校訂作業)に入り[1]、翌52年(1713年)には「翰林院編修中国語版の官職を授けられ[9][6]、『皇輿表』や『音韻闡微中国語版』などの編纂に従事した[2]

しかし康熙53年(1714年)秋[6]、康熙帝の熱河巡幸中、何焯が皇帝を中傷しているとの讒言がなされた。北京に帰幸した康熙帝は激怒し[1]、「試験免除などの皇帝から受けた異例の恩義の軽視」、「自身の娘を許可なく第八皇子の邸宅で養育させている」[10][11]などの罪状により、何焯を即座に逮捕・投獄した。これにより官職は免黜され、挙人・進士の資格も剥奪された[1]

この逮捕時に数万巻に及ぶ蔵書や文章が没収され、康熙帝自らがそれらを検閲したところ、膨大な校訂の跡を見て「是(これ)固(まこと)に読書の種子(学問をするために生まれてきた者)なり」と深く感銘を受けたという。さらに職を失ったことへの不満を綴った言葉は一つもなく、また草稿の中に「呉県知事からの賄賂を拒絶した」という手紙を見つけたことで、皇帝はますます彼を非凡に思い、何焯を釈放、没収した蔵書も返還した[1][5]

晩年と死後

正式な官職からは解かれたが、出獄後は「武英殿」で編修の継続や校訂作業に就いた[1][5][6]

康熙61年(1722年)、61歳で死去。その生涯は康熙朝61年間とほぼ重なっている[3]。康熙帝はその死を深く悼み、特例として侍講学士中国語版の官職を贈り[6]、葬儀のための金を下賜し、役人に命じて遺された孤児たちを救済させた[1]

人物

広く多くの書物を読み、蔵書は数万巻に及び、経学、歴史、諸子百家に至るまで深く通じていた[6]時代の古い版本を手に入れると、必ず自ら校勘(文字の誤りを正す作業)を加えるなど、校勘学に長けていた。主著『義門読書記中国語版』は何焯の死から約30年後、子や甥、および門生たちが彼の手による経書・史書の字句校訂と批評を集大成したものである[12][2]

門下生として記録されている者は400人に及び、呉江沈彤中国語版呉県陳景雲中国語版などの著名人物がいる[1]

著作

現存する書物

  • 『義門読書記』(全58巻)
  • 『義門先生集』(全12巻)
  • 『義門家書』(全4巻)
  • 『義門小集』(全1巻)
  • 『分類字錦』(全64巻:陳鵬年らと編纂)
  • 『文選』批校(注釈・校訂)
  • 『困学紀聞』批校(注釈・校訂)

散逸した書物

  • 『詩文古籍』
  • 『語古齋識小録』
  • 『道古録』

逸話

何焯がかつて「南書房」に詰めていたある夏の日、裸になって涼んでいたところを、仁皇帝(康熙帝)が突然お見えになった。逃げ出す暇もなく、何焯は慌てて暖炉の穴の中に身を隠した。そして周囲の者に「ジジ(老頭子:皇帝)はもうさがったのか?」と尋ねたところ、思いがけずそれを皇帝に聞かれてしまい、皇帝は激怒して罪に問おうとした。すると何焯はこう釈明した。「〈老〉とは、天に先んじて不老であることを言い、〈頭〉とは、万物の頂点に立つことを言い、〈子〉とは、天を父とし地を母とすることを言います。決して悪意を持って誹謗したわけではございません」。これを聞いた皇帝は大いに喜び、何焯を許したという[13]

評価

書道の評価

書道に巧みで、時代の法帖の臨書を好み、欧陽詢褚遂良(唐代の書家)などの各大家の流れを汲んでいた。彼が書いた楷書行書はいずれも逸品とされ、特に「蠅頭小楷」(ハエの頭のように極小の楷書)を好んだ。校訂した書籍は「手校本」として珍重され、同時期の汪士鋐中国語版と並び「汪何」と称され、「帖学四大家」の一人とされる[5]。当時の人々は争って彼の書を求め、熱心な愛好家たちはしばしば大金で買い求めたという[1]

考証学・人物評価

一方で、その人柄や考証学的手法に対しては辛辣な評価も散見される。当時激化していた後継者争い(九子奪嫡)では、何焯は第八皇子・胤祀の側近(朋党)であったことから、没後の雍正4年(1726年)には雍正帝より「匪党と結託して名声を盗み、裏切りの心を抱いていたことは周知の事実である」と、『雍正実録』において名指しで断罪されるに至った[14]。また、雍正帝が「年羹堯に媚びて悖逆的な詩を作った」として銭名世中国語版を弾劾した際にも、「銭名世や陳夢雷中国語版、何焯らはいずれも文名はあったものの、惜しむらくは行状が正しくなく、立身が卑汚であった。それゆえ、聖祖(康熙帝)も彼らを排斥して重用しなかったのである」[15]とも述べている。

また、陳康祺中国語版郎潛紀聞中国語版二筆』には、「何焯の不品行」と題して次のように記している[16]

何義門(何焯)の評判は世を欺くほど高いが、その実態はどうだ。自著の『道古録』は人に盗まれたと言い張り、その校訂は先人の閻若璩に及ばず、後進の全祖望にも劣る有り様だ。それなのに、彼は名臣・王応麟を「科挙官僚の悪癖が抜けていない」と嘲笑した。果たして何焯自身、その学問の入り口さえ夢に見ることができたのか疑わしいほどなのに、よくも大言壮語を吐いたものだ。
実際、『四庫全書総目提要』でも何焯が妄りに他人の欠点を指摘することについては批判されており、全祖望も彼の仕事を「注釈の末端に付け足した程度の代物」と揶揄している。世に伝わる『読書記』も、彼の弟子によれば半分は偽物で、何焯の手によるものではないという。康熙帝が彼を破格の待遇で迎えたのも、もとは李光地の熱心な推薦があったからで、皇帝が一芸ある者を拾い上げる寛大さを示したに過ぎない。晩年には娘を皇子の邸宅で養育させ、私的なコネ作りに奔走したため、康熙・雍正の両帝から「恩義を知らず、行状が正しくない」と公式の詔書で断じられたのである。海内の士よ、どうか彼の虚名に惑わされないでほしい。陳康祺『郎潜紀聞二筆』巻八「何義門行止不端」

後進の考証学者・銭大昕は、何焯の校勘技術や書法の美しさを高く評価する一方で、その考証学の姿勢には極めて批判的であり、資料を十分に精査せぬまま、限定的な記述を根拠に先代の史家・沈約を嘲笑したことを挙げ、「彼が史伝を引用して古人を批判している箇所に至っては、甚だしく失笑を禁じ得ない」[17]と、学問的態度を批判している。

校勘学への貢献

しかし一方で、何焯の校勘は極めて高い実用性を備えていた。死後、乾隆帝の命により編纂された武英殿本(二十四史)の『漢書』『後漢書』『三国志』では何焯の校訂が底本として採用され、公式な権威として定着した[18][19]。こうした背景から、何焯が校勘のスタンダードを確立した功績は大きく、何焯を批判した銭大昕自身も『義門読書記』から校勘技術を学び、その成果を多く継承・利用している[19]

何焯は対校法・本校法・他校法という客観的手法に加え、自身の判断で是非を決める理校法を用いている。具体的な事例の検討を通じて客観的な実証よりも「史書の体系性や筋道としていかにあるべきか」という主観を優先させる傾向があった。そのため、その論証はしばしば説得力に乏しく、状況証拠による推測に留まっている面もあり、近代的な実証主義に基づいた歴史学とは異なる「批校者の主観的な事実構成」という側面を持つ。そのため、日本の研究史においては、こうした主観的な事実構成を「未熟な史料批判」や「個人の憶測」として否定的に評価する傾向もあったが、近年ではこれを近代科学の未発達と見なすのではなく、テキストの体系的な整合性を追求する独自の学問体系(実事考証)として捉え直すべきとの見解も示されている[20]

脚注

参考文献

外部リンク

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