倉富勇三郎

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生年月日 1853年8月20日
嘉永6年7月16日
出生地 江戸幕府筑後国竹野郡秋成村(現:福岡県久留米市
没年月日 (1948-01-26) 1948年1月26日(94歳没)
死没地 連合国軍占領下の日本の旗 日本・福岡県浮羽郡船越村大字秋成(現:久留米市)
倉富 勇三郎
くらとみ ゆうざぶろう
生年月日 1853年8月20日
嘉永6年7月16日
出生地 江戸幕府筑後国竹野郡秋成村(現:福岡県久留米市
没年月日 (1948-01-26) 1948年1月26日(94歳没)
死没地 連合国軍占領下の日本の旗 日本・福岡県浮羽郡船越村大字秋成(現:久留米市)
出身校 司法省法学校
前職 司法官僚
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
男爵
法学博士
子女 (長男)
親族 胤厚(父)
恒二郎(兄)
荒井賢太郎(相舅)
大日本帝国の旗 第15代 枢密院議長
在任期間 1926年4月12日 - 1934年5月3日
天皇 大正天皇
昭和天皇
在任期間 1925年12月28日 - 1926年4月12日
枢密院議長 穂積陳重
在任期間 1920年10月22日 - 1925年12月28日
天皇 大正天皇
大日本帝国の旗 第16代 法制局長官
内閣 第1次山本内閣
第2次大隈内閣
在任期間 1913年9月20日 - 1914年4月25日
選挙区 勅選議員
在任期間 1914年3月31日 - 1916年10月21日
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倉富 勇三郎(くらとみ ゆうざぶろう、1853年8月20日嘉永6年7月16日〉- 1948年昭和23年〉1月26日)は、明治から昭和にかけての司法宮内官僚。学位は、法学博士男爵

法制局長官貴族院勅選議員枢密院議長。法典調査会刑法起草委員。作家広津柳浪は夫人の兄に当たる。

筑後国竹野郡秋成村(現:福岡県久留米市)の儒学者倉富胤厚の3男。倉富家は、戦国大名龍造寺氏の末裔。

父は儒学で知られて久留米藩に仕えた人物であり、幼い頃より父から厳しく漢学を伝授された。父や師は、咸宜園で学んでいるので咸宜園の系譜に属すると言えるが、自身は咸宜園では学んでいない。1879年明治12年)に司法省法学校を卒業後司法省に入省し、民刑局長をへて1904年(明治37年)に東京控訴院検事長に就任して、1907年(明治40年)には法学博士を授与されるが、先に発生した日比谷焼打事件河野広中らを起訴した事が世論の反感を買い、後にその責任を取らされて韓国法部次官(司法次官、当時第三次日韓協約によって各省次官には日本人がつくことになっていた)に左遷された。

1910年(明治43年)の日韓併合によって朝鮮総督府司法部長官に転じ、朝鮮植民地法制の基礎を築いた。その功労によって1913年大正2年)の第1次山本内閣では、法制局長官に就任。翌1914年(大正3年)3月31日に貴族院議員に任じられた[1]。同内閣の総辞職後は宮内省に移る。1915年(大正4年)6月22日、錦鶏間祗候となる[2]1916年10月21日、貴族院議員を辞任[3]1920年(大正9年)に枢密顧問官になると、大正14年(1925年)に枢密院副議長[4]、翌1926年(大正15年)に枢密院議長に就任するなどして男爵を授けられた。副議長の平沼騏一郎とともに政党政治に懐疑的な人物であり、政党内閣としばしば対立して金融恐慌の際には第1次若槻内閣の倒閣に大きな役割を果たした。

1930年昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約批准問題では、条約反対を唱えて濱口内閣倒閣を図るが、元老西園寺公望内大臣牧野伸顕、更に昭和天皇までが内閣擁護の姿勢を見せたためにその圧力に屈した。その後も政党内閣や国際協調には否定的で、満州事変五・一五事件などの軍部の暴走に対しても軍部に同情的な姿勢を見せた。だが、昭和天皇の信任が揺らいだ事で自信を失い、1934年(昭和9年)に眼病を理由に、平沼を後継に推して議長を辞任した。だが、西園寺は倉富・平沼が軍部に心理的なバックアップを与えているとして反感を抱いており、後任に一木喜徳郎を推挙して任命にこぎつけた。

これに憤慨し倉富は、前官待遇を受けたにも拘らず、故郷に引き籠もって隠居生活に入る。太平洋戦争敗戦後は病気勝ちとなり、それも理由となり戦争犯罪容疑の追及は免れたものの、失意のうちに94歳で病死した。

国立国会図書館「憲政資料室」に、詳細で膨大な『倉富勇三郎日記』が所蔵されている。

栄典

位階
爵位
学位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1893年(明治26年)6月29日 勲六等瑞宝章[5][18]
1897年(明治30年)12月28日 勲五等瑞宝章[5][19]
1898年(明治31年)6月29日 双光旭日章[5][20]
1899年(明治32年)6月20日 勲四等瑞宝章[5][21]
1903年(明治36年)5月21日 旭日小綬章[5][22]
1903年(明治36年)6月26日 勲三等瑞宝章[5][23]
1909年(明治42年)4月18日 皇太子渡韓記念章[5][24]
1910年(明治43年)6月24日 勲二等瑞宝章[5][25]
1911年(明治44年)6月13日 旭日重光章[5][26]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[5][27]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[5][28]
1919年(大正8年)9月29日 勲一等瑞宝章[5][29]
1926年(大正15年)10月9日 旭日大綬章[5][30]
1928年(昭和3年)11月10日 大礼記念章(昭和)[5]
1928年(昭和3年)12月28日 旭日桐花大綬章[5][31]
1931年(昭和6年)3月20日 帝都復興記念章[5][32]
1940年(昭和15年)8月15日 紀元二千六百年祝典記念章[33]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1909年(明治42年)10月26日 大韓帝国 勲一等太極章[5][34]
1910年(明治43年)6月24日 大韓帝国 韓国皇帝陛下南西巡幸記念章[5][35]
1910年(明治43年)8月28日 大韓帝国 李花大勲章[5][36]
1934年(昭和9年)3月1日 満州帝国 建国功労章[5]
1934年(昭和9年)5月9日 満州帝国 勲一位龍光大綬章[5]
1935年(昭和10年)9月21日 満州帝国 満州帝国皇帝訪日記念章[5]
賞杯等

親族

脚注

文献

参考書籍

外部リンク

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