南解次次雄
新羅の王
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治世
紀元4年3月に赫居世の死去を受けて即位した。同年7月には楽浪の侵入を受けて首都の金城が何重にも包囲された。このとき、王は自らの不徳を嘆いて群臣にどうするべきかを尋ねたところ、臣下の者は「我々が喪に服していることを恃んで賊が攻めてきたのであって、天佑は賊には及ばないであろうから、恐れることはない」と言った。やがて楽浪の兵は引き上げた。
賢者の昔脱解(後の第4代王の脱解尼師今)の噂を聞きつけて取立て、王の長女を嫁がせ、10年7月には大輔の役につかせ、軍事及び政治を任せた。
14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
24年の9月以降に在位21年にして死去し、始祖赫居世の陵である虵陵(現在地未詳)の域内に葬られた。
王の称号
住吉の神名との一致
「南解次次雄」の王名を日本語の宛字と解するならば、「ナカツツノヲ」と読むことが可能で、これは三韓征伐を導いた住吉大社の神・中筒之男(ナカツツノヲ)と同名となる。さらに古事記、日本書紀においては、新羅王が服属した証として王城の門に住吉の神を祀らせた旨が記載されている[1]。この説は、江戸時代初期の伊勢神宮の神職・度会延経が唱え、新井白石が『古史通』で記した。松下見林が『異称日本伝』、栗山潜鋒が著書『保建大記』で記し、国学者・谷川士清も『和訓栞』を著して紹介した。歴史考証家の藤貞干も著書『衝口発』でこれを記し、江戸後期の国学者・伴信友も著書『中外経緯伝』でこれを記載しており、江戸時代を通じて定説とされたポピュラーなものであった。