光永元方

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光永 元方(みつなが もとかた)は、戦国時代武将毛利氏の家臣で、毛利氏庶流である光永氏の当主。父は光永秀時

生誕 不詳
死没 永禄12年(1569年[1]
別名 通称:新四郎[1]
概要 凡例光永元方, 時代 ...
 
光永元方
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄12年(1569年[1]
別名 通称:新四郎[1]
官位 刑部少輔[1][2]
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 大江姓坂氏庶流光永氏
父母 父:光永秀時[1]、母:粟屋元秀の娘[1]
兄弟 元方加賀守[1]、女(桂元将室)[1]
女(井上元有室)[1]
元勝[3]清誉妙安渡辺長正室)[2][4]
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生涯

生年は不明だが、安芸国国人毛利氏の庶流である光永氏の当主・光永秀時の子として生まれる[1]

大永7年(1527年)、大内氏を離反した阿曽沼氏安芸武田氏の援軍が籠る鳥籠山城攻めに参加し、安芸武田氏家臣・岩国十郎太郎(岩内十郎右衛門とも)を討ち取った武功により、同年3月23日毛利元就から感状を与えられる[5][6]。また、同年の備後国三谿郡和智郷における細沢山の戦いにおいて、切傷を1ヶ所負いながらも尼子軍相手に奮戦し、同年8月9日に父・秀時と共に元就から感状を与えられる[7][8]

天文17年(1548年)の神辺合戦に参加し、同年6月18日神辺城固屋口での戦いで渡辺長三上民部丞らと共に武功を挙げ、6月23日毛利隆元から感状を与えられる[9]

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、22番目に「光永新四郎元方」と署名している[注釈 1][10]

天文21年(1552年7月23日、毛利元就が元方、出羽元祐阿曽沼広秀長井春保湯浅元宗市川経好らを率いて備後国に出陣し、宮光音志川滝山城を攻撃した際に武功を挙げ[11]7月23日に毛利元就と隆元から連署の感状を与えられる[12]

弘治3年(1557年12月2日防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、70番目に「光永新四郎」と署名する[13]

永禄4年(1561年)11月に石見国福屋隆兼が離反すると、北九州へ出陣している毛利隆元に従って石見国に転戦し、翌永禄5年(1562年1月5日に隆元から、福屋隆兼攻めが連戦となることから元方の一廉の馳走が喜ばしい旨の書状を受け取る[14][15]

永禄8年(1565年6月6日毛利輝元刑部少輔に任じられる[16]

年不詳ながら元方が「光永刑部少輔」と名乗っている時期の8月17日、元方をはじめとして、長和四郎左衛門中村新右衛門福原弥八郎井上新次郎井上左京亮作間源七郎武永左京亮村上七郎三郎新見彦次郎財満孫右衛門財満右馬之助財満孫五郎財満杢之丞浅原藤右衛門らの長期間の在陣と8月14日の合戦における一段の心入れについて聞いた元就は喜ぶと共に、長期間の在陣を労いつつ陣替えを提案する書状を送っている[17]

永禄12年(1569年)、筑前国における立花城の戦いにおいて戦死[1]。同年12月13日に子の新九郎(後の中務少輔元勝)が輝元から「元」の偏諱と加冠を受けて元服[18]、後を継いだ[1]

脚注

参考文献

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