児玉元良
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| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 天正13年11月19日[1](1586年1月8日) |
| 改名 | 児玉元実[1]→児玉元良 |
| 別名 |
通称:小次郎[1]→三郎右衛門尉[1] 略称:児三右、児三 |
| 主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
| 氏族 | 児玉氏 |
| 父母 | 父:児玉就忠[1]、母:久芳賢直の娘[1] |
| 兄弟 | 元良、小方元信[1]、春種[1]、内藤元輔[1]、女(粟屋元信室)[2] |
| 妻 |
正室:有福元貞の娘[1] 継室:羽根泰次の娘[1] |
| 子 | 元兼[2]、飯田元親[2]、景唯[2]、二の丸殿(清泰院、毛利輝元側室)[2]、女(益田景祥室)[2]、元次[2] |
児玉 元良(こだま もとよし、旧字体:兒玉 元良)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国の戦国大名・毛利氏の家臣で、毛利氏の五奉行の一人。
永禄5年(1562年)、父の就忠が病死すると家督を相続する。同時に毛利氏の五奉行の地位も引き継ぎ、天正12年(1584年)まで務めた。
永禄8年(1565年)、毛利輝元の指揮下で月山富田城の戦いに従軍。
元亀元年(1570年)、山中幸盛率いる尼子再興軍との布部山の戦いにも従軍した[3]。
元亀3年(1572年)12月1日、毛利輝元から安芸国安北郡諸木の内の40貫の地を恩賞として与えられる[4]。
毛利氏と織田氏との対立が激しくなると播磨国方面にも進出し、天正6年(1578年)の上月城の戦いにも嫡男の児玉元兼と共に従軍した。同年6月21日の合戦で元兼が負傷しつつも戦功を挙げたことで、6月26日に元良からも輝元からの称賛の言葉を言い聞かすように輝元から命じられている[5][6][7]。
天正7年(1579年)3月2日、元就の娘婿である備後国人の上原元将が元良に売り渡していた周防国玖珂郡南方の内の80石の地を、輝元が元良の給地として承認した[8]。
天正8年(1580年)4月14日、毛利輝元の備中出陣に伴う宇喜多方の備前国人である伊賀久隆の虎倉城攻撃の途上、備前国児島郡下加茂において伊賀久隆の強襲を受け、毛利軍は先鋒部隊の将であった粟屋元信を始めとして児玉元房、井上元勝、奈古屋元賀、三戸元好、小寺就武、宇多田藤右衛門、山県三郎兵衛、足立十郎右衛門、斎藤左衛門尉ら40人余りが討ち取られる大敗を喫した(加茂崩れ)[9]。この時の撤退戦において元良の嫡男・元兼が粟屋元信の首級を奪い返すために奮戦し負傷したため、養生をする元兼のために輝元は5月12日に元良を呼び寄せている[10]。
天正12年(1584年)、毛利氏の使者として、伊予国の河野氏のもとへ派遣されている。
天正13年(1585年)11月19日、元良は死去した。輝元は元良の死を痛惜し、翌11月20日に粟屋元種に書状を送って、元良の遺族を慰藉するよう依頼している。また、同じく11月20日に元良の死を知った小早川隆景も粟屋元種に書状を送っており、上洛中で元良の見舞いに行けなかったことを悔やんでいる[11]。
元良の死去に伴って嫡男の元兼が家督を相続し、天正14年(1586年)1月27日に元良が行っていた取次を元兼が引き継ぐことを小早川隆景と吉川元春・元長父子から認められている[12]。