上原元将
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毛利元就の娘婿
備後国世羅郡甲山[注釈 1]の今高野山城を本拠とした国人である上原豊将の嫡男として生まれる[1]。
父の豊将が毛利元就に属して天文22年(1553年)の備後経略に功を立てたことによって、元将は元就の四女である芳林春香を娶ることとなり、以後毛利氏の一族として重きをなした[1]。具体的な婚姻時期は不明であるが、少なくとも元亀元年(1570年)12月20日に口羽通良が湯浅元宗に送った書状において「吉田御縁類」と記されているため、この時までには婚姻が行われていることが分かる[2]。ただし、後の天正7年(1579年)10月8日に書かれた穂井田元清の書状では、織田氏との戦いにおいて上原氏をはじめとする備後国の国人達に離反の可能性があると元清が認識していることから、従属性が低い有力国人である上原氏を毛利方に繋ぎとめるために芳林春香が元将に嫁ぐことになったと推測されている[3]。
また、永禄13年(元亀元年、1570年)頃に備後国人の湯浅将宗が毛利氏に対して替地を要求した際には上原氏がその仲介を行っており、上原氏が備後国内郡の盟主的地位にあったと認識されていたことが窺われ、上原氏と毛利氏の婚姻関係を結ぶことで備後国内郡の領主層をまとめようとする毛利氏の思惑があったと考えられている[4]。
織田氏との戦い
天正2年(1574年)閏11月、毛利方の備中国人であった三村元親が毛利氏から離反して備中兵乱が始まると、元将も毛利方として従軍[5]。同年12月26日に三村政親が守る備中西部の国吉城を毛利軍が包囲し攻撃を開始すると、敵わないと見た三村政親はしきりに降伏を申し出たが、小早川隆景は備中攻めの初戦であるため城兵は悉く討ち果たすべしと主張して降伏を認めず、国吉城への攻撃を続行[6]。12月30日に三村政親が密かに国吉城を脱出したが、翌日の天正3年(1575年)1月1日に国吉城は陥落した[6]。この時に毛利軍が討ち取った敵兵はほぼ全滅にあたる305人に及んでいるが、その内の3人を上原軍が討ち取っており、万代広介、高木包左衛門尉、小者衆がそれぞれ首級を1つずつ得ている[注釈 2][5][6]。
天正4年(1576年)3月28日、備後国の鋳物師である丹下神助に対し、惣大工職を認めている[7][8]。
天正7年(1579年)、元将に与えられていた周防国玖珂郡南方の内の80石の地を児玉元良に永代売で売り渡し、3月2日に毛利輝元が該当の80石の地を元良の給地として承認した[9]。
同年9月に宇喜多直家が毛利氏を離反して織田氏に味方し、同年10月には宇喜多信濃守に毛利方の備中忍山城を攻撃させて占領した[10]。この宇喜多氏の動きに対し、毛利輝元は自ら吉田郡山城を出陣し、同年12月24日に吉川元春・小早川隆景と共に忍山城を総攻撃して翌12月25日夜に陥落させた[11]。これによって宇喜多氏の勢力は備中国から駆逐され、輝元は次に美作国へと進軍する[12]。備中国では、備前国との国境防備の強化のために備中国賀陽郡の各城の防備が固められ、元将は日幡城に入城した[注釈 3][1][12]。
また、同年10月8日に穂井田元清が織田氏との戦いに出陣するにあたって自身の母や兄弟たちについて毛利輝元に後事を託した書状[13]において自らの妹で元将の正室である芳林春香についても触れており、「甲山(芳林春香)の事もお頼みします。特に女の身で境目[注釈 4]へ赴いており、万一の時にはまことに痛ましい事になるおそれがあります。備後衆は表裏なる衆で離反の可能性があるので、一段と御配慮を頂ければと思います。子供の一人もおらず何とも気の毒に思っています。人の一人も付けられていないので、折節に人を遣わして是非ともお気遣いして頂ければありがたいです」と依頼している[13]。この内容から、この時の穂井田元清は上原氏を始めとした備後衆には離反の可能性があると見ており、元将と芳林春香の間に子がいないことから、もし上原氏が離反した場合には芳林春香が殺害される危険性も憂慮していたことが窺われる[3][14]。このように離反の危険性がある上原氏らを所領から切り離して、織田氏との戦いの最前線である備中国に配置したこともその対策の一環と考えられている[14]。
毛利氏離反
天正10年(1582年)になると備中国と備前国の国境地域が毛利氏と織田氏との戦いの主戦場となり、同年4月13日には織田氏重臣の羽柴秀吉が今保川を渡って備中国への侵攻を開始した[14][15]。秀吉軍は毛利方の最前線に位置して湯浅将宗らが守る岩山城を通過して北上し、4月16日以前に小早川家臣の乃美景興が守る宮路山城と、備中国人の林重真と松田孫次郎が守る冠山城、亀石城への攻撃を開始[15][14]。4月25日に冠山城が陥落し、5月2日に宮路山城が開城した[14][15]。さらに秀吉は毛利氏家臣の桂広繁、備後国人の上山元忠、備中国人の生石治家が守る加茂城を標的とし、秀吉の調略を受けた生石治家が5月2日に毛利氏から離反して加茂城の出城を陥落させているが、桂広繁と上山元忠らの活躍により撃退に成功している[16]。
この頃の秀吉は毛利方の海洋領主層への調略も進めており、小早川水軍の乃美宗勝は秀吉からの調略を拒否しているが、備前国児島の高畠氏や来島村上水軍の来島通総らは秀吉の調略に応じて織田方へと転じている[14][17]。これにより備讃海峡の制海権を織田方に奪われた毛利氏は物資輸送に支障を来たし、織田方との最前線に位置する備前国と備後国の境目地域の諸城に対する救援も困難となっている[14]。そのような状況から、元将は毛利氏から見捨てられる危険性を考えて毛利氏からの離反することを、4月24日以前に決意した[14]。
5月7日には秀吉の軍が清水宗治の守る備中高松城を包囲したことで、吉川元春と小早川隆景が備中高松城の救援のために高松城の西南十数町に位置する岩崎山まで軍を進めたが、高松城の救援は思うように進まなかった[18]。これらの状況を見た元将は秀吉の調略に応じて織田氏へ降ることを決定[18]。秀吉は元将への見返りとして備後国を与える旨の朱印状を与えることを提示し、もし備後国が織田側の手に入らなければ、備中国において元将が希望する場所で2万貫の所領を与えることを約束した起請文を6月3日付で出している[19][20]。
当時日幡城の二の丸を守っていた日幡景親は、元将の毛利氏離反の意志を知ると元将を強く諫めたが、元将は諫言を聞き入れず日幡景親を討ち果たして織田方へ寝返った[18]。元将は宇喜多軍を日幡城に招き入れ、秀吉は木村重茲を検使として日幡城へ派遣した[18]。元将の離反を知った国司元武は、6月5日に上原氏と所領が隣接し親密な間柄であり当時岩山城の守備していた湯浅将宗に連絡[18]。湯浅将宗は岩崎山に在陣する吉川元春と小早川隆景に急使を派遣して元将の離反を報告し、自らの進退についての指示を仰いだ[18]。元春と隆景は直ちに楢崎元兼に備中国と備後国の兵を率いさせて日幡城を攻撃[21]。この攻撃に元将は防戦するが、秀吉は6月3日に元将への起請文を記した直後に本能寺の変の報を受けたことで、翌6月4日には毛利氏と和睦し、6月6日に陣を引払って京へ向かっていた(中国大返し)。そのため、秀吉の援軍を受けられなかったことで日幡城は直ぐに陥落し、元将は城を脱して秀吉の下へ逃亡した[21]。さらに楢崎元兼は毛利元就の四女である元将の正室を奪還して吉田郡山城へと送り届けている[21]。
元将の離反は直ちに鎮圧されたが、元就の娘婿にあたる元将の毛利氏離反は毛利氏に大きな動揺を与え、織田氏との戦いに従軍中の三沢為虎や久代修理亮らの離反の風説が生じている[21]。
羽柴秀吉の下へ逃れた元将は、後に秀吉から播磨国加古郡において1000石の知行地を与えられたが、天正12年(1584年)に病死した[22][23]。
元将の離反当時に織田方との戦いに従軍していた毛利氏家臣の桂元盛は元和8年(1622年)に記した『桂岌円覚書』において、元将の離反とその最期について「元将の離反について聞いた秀吉は、沙汰の限り(言語道断)の奴として取り合わず、ようやく元将に播磨国加古郡に1000石の知行を与えられたが、元将はその後一両年にして病死した」、「総じて本意を違えた者の子孫が繁栄することは稀であるが、不定の世の中であるので、もし幸いにもそのような者が難を逃れたとしても、諸人に人外(人でなし)のように思われては生きる甲斐も無いことである」と記している[22][24]。
脚注
注釈
- ↑ 現在の広島県世羅郡世羅町甲山。
- ↑ 国吉城攻めにおいて各軍が討ち取った敵兵の数の内訳は多い順に、毛利輝元の本軍が95人、宍戸隆家の軍が53人、熊谷高直の軍が29人、阿曽沼広秀の軍が28人、馬屋原信春の軍が27人、天野元明の軍が26人、平川盛吉の軍が13人、田総元勝の軍が11人、小早川隆景の軍が8人、天野元政の軍が5人、細川通董の軍が3人、上原元将の軍が3人、長元信の軍が2人、山内隆通の軍が1人、平賀元相の軍が1人[5][6]。
- ↑ 同時期に、加茂城本丸に桂広繁、西の丸に上山元忠、東の丸に旧備中石川氏家臣の生石治家、松島城に小早川隆景の家臣である梨羽景運、庭瀬城に隆景家臣の桂景信と井上豊後守がそれぞれ守りについた[12]。
- ↑ 「境目」とは、上原氏の所領が安芸国に接する備後国最西部に位置していたことを示すと解釈されている[3]。
出典
- 1 2 3 毛利輝元卿伝 1982, p. 251.
- ↑ 『閥閲録』巻104「湯淺權兵衛」第90号、元亀元年(1570年)比定12月20日付け、湯治(湯淺治部大輔元宗)宛て、(口羽)下野守通良返書。
- 1 2 3 光成準治 2019, p. 113.
- ↑ 光成準治 2025, pp. 122–123.
- 1 2 3 『毛利家文書』第375号、天正3年(1575年)1月1日付、備中國手要害合戦頸注文。
- 1 2 3 4 毛利輝元卿伝 1982, p. 58.
- ↑ 片山清 1961, pp. 44–45.
- ↑ 『丹下氏文書写』第12号、天正4年(1576年)3月28日付け、丹下神助殿宛て、(上原)元将書状。
- ↑ 『閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」第49号、天正7年(1579年)3月2日付け、兒玉三郎右衛門尉(元良)殿宛て、(毛利)輝元書状。
- ↑ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 158–159.
- ↑ 毛利輝元卿伝 1982, p. 160.
- 1 2 3 毛利輝元卿伝 1982, p. 161.
- 1 2 『毛利家文書』第847号、天正7年(1579年)比定10月8日付け、四元清(穂田少輔四郎元清)書状。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 光成準治 2025, p. 131.
- 1 2 3 毛利輝元卿伝 1982, pp. 251–252.
- ↑ 光成準治 2025, p. 132.
- ↑ 光成準治 2019, p. 114.
- 1 2 3 4 5 6 毛利輝元卿伝 1982, p. 252.
- ↑ “秀吉、寝返りの見返り約束 本能寺の変翌日付の誓約状”. 共同通信社 (2025年11月21日). 2025年11月21日閲覧。
- ↑ “本能寺の変の翌日、秀吉が出した起請文を発見 事件知らずに書いたか”. 朝日新聞社 (2025年11月21日). 2025年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年11月21日閲覧。
- 1 2 3 4 毛利輝元卿伝 1982, p. 253.
- 1 2 『桂岌円覚書』
- ↑ 毛利史料集 1966, pp. 55–56.
- ↑ 毛利史料集 1966, p. 56.
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1922年12月。
国立国会図書館デジタルコレクション - 片山清『芸備両国鋳物師の研究』1961年7月。全国書誌番号:62006527。
国立国会図書館デジタルコレクション - 三坂圭治校注『毛利史料集』人物往来社〈第二期戦国史料叢書9〉、1966年12月。全国書誌番号:50007671。
国立国会図書館デジタルコレクション - 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。
国立国会図書館デジタルコレクション - 光成準治『小早川隆景・秀秋―消え候わんとして、光増すと申す―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年3月。ISBN 978-4-623-08597-2。
- 光成準治『安芸・備後の戦国史 ―境目地域の争乱と毛利氏の台頭』法律文化社〈戦国時代の地域史③〉、2025年1月。ISBN 978-4-589-04360-3。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻17「兒玉三郎右衛門」、巻104「湯淺權兵衛」