益田景祥

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生誕 天正3年(1575年
または、天正5年(1577年[注釈 1][1]
改名 益田才鶴→宗像才鶴→益田景祥
 
益田 景祥
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正3年(1575年
または、天正5年(1577年[注釈 1][1]
死没 寛永7年7月13日1630年8月21日[1]
改名 益田才鶴→宗像才鶴→益田景祥
別名 通称:七内[1]
戒名 玄答院江雲道半[2]
墓所 玄答院山口県山口市仁保下郷深野)
官位 修理亮[1]河内守[1]従五位下[1]
主君 小早川隆景毛利輝元秀就
氏族 益田氏宗像氏→益田氏
父母 父:益田元祥[1]
母:芳春院吉川元春の長女)[3]
養父:宗像氏貞[2]
兄弟 広兼[2]景祥瑟瞵[2]、鍋子[2]千林院堅田元慶室)[2]吉川家澄[2]長仙院児玉元恒室)[2]澗松院吉川正実室)[4]種子宍戸元真[5]就之[5]就景[5]
正室:見性院児玉元良の娘)[2]
継室:臼杵統尚の娘(毛利元鎮の養女)[1]
光寿院益田元堯室)[1]就固[1]就貫[1]、女(阿曽沼就春室→吉川正乗室)[1]、女(児玉就信室)[1]、女(林就尚室)[1]、女(清水就信室)[1]
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益田 景祥(ますだ かげよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将石見国国人益田氏に生まれる。毛利家の重臣で長州藩士、問田益田家の初代。

父は益田元祥、母は吉川元春の娘である芳春院。正室は児玉元良の娘。継室は臼杵統尚の娘[注釈 2]。兄弟に広兼吉川家澄就之就景。子は就固就貫。また娘は益田元堯室、阿曽沼就春室、児玉就信室、林就尚室、清水就信室らがいる。通称は七内、修理亮、河内守。官位は従五位下、諸大夫。号は道半。菩提寺は山口県山口市仁保下郷深野の玄答院

天正3年(1575年)もしくは天正5年(1577年)、毛利家の重臣・益田元祥の次男として生まれる[2]。生母は吉川元春の長女・芳春院であるため、景祥は元春の外孫にあたる[2][1]

天正14年(1586年)頃に幼少で筑前国の名族・宗像氏の養子となり、宗像才鶴を名乗る[6]。のち文禄四年(1595年)に兄の益田広兼が急死したため、父・元祥に乞われて実家に戻る。

武人としての器量があったため小早川隆景に仕え、当時若年ながら朝鮮出兵で活躍し[注釈 3]、隆景に軍功を称えられ偏諱を貰い、景祥と名のる。隆景が武家清華家に列した時に、諸大夫成している。その死後、豊臣秀吉から筑前名島周辺1万石で隆景の養子である秀秋に仕えるように命じられたが、苦慮の末に毛利輝元の直臣となった。関ヶ原の戦いの後、防長減封の時に父の元祥と共に奔走し、萩城の築城や萩藩の経済を立て直すなどの支配体制確立に功があった。

益田宗家は兄の子元堯が継いだため分家して[注釈 4]、はじめ周防国佐波郡右田で2500石、長門国江崎を経て、寛永2年(1625年)、周防吉敷郡問田深野などで4096石の知行を貰い、藩の寄組に列した。

寛永7年(1630年7月13日、周防国山口において死去[2]享年54、または、56[2][1]。笠松山麓に葬られる[2]。嫡男の就固家督を継いだ[1]

なお、小早川隆景夫人が夫の死後に景祥を頼り、問田に移り住んだことから、問田大方と呼ばれる。

系譜

脚注

参考文献

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