日本農民組合
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沿革
創立
第一次世界大戦中から日本の小作争議は漸増傾向をみせ、戦後恐慌がはじまると農産物価格と農家購入品の価格差の拡大し、さらに小作争議が活発化していた[2]。そのような社会情勢の下で、1920年(大正9年)10月17日、福島県小高町で牧師をしつつ農業に従事していた杉山元治郎は、神戸で川崎造船所の争議を指導していた賀川豊彦を訪ねる。そこで賀川は杉山に対して、農民組合運動の準備をするよう呼び掛ける[3][4]。翌18日、杉山が大阪朝日新聞の記者に賀川との相談内容を話したところ、各新聞に報道されて全国的な反響を呼ぶ[2]。1922年(大正11年)2月に機関誌『土地と自由』を創刊するなどの準備を経て、同年4月9日に神戸市のキリスト教青年会館で日本農民組合(日農)の創立大会が開かれる[5]。創立大会には杉山・賀川のほか、行政長蔵・古瀬伝蔵・岩内善作・山上武雄らが参加した[6]。また、日本労働総同盟会長の鈴木文治、北海道帝国大学農科大学教授の森本厚吉らも出席した[7]。
創立当初の日農は杉山・賀川のキリスト教的人道主義の立場を反映して、創立宣言では「飽迄暴力を否定す」とし、綱領では「穏健着実合理的なる方法を以て共同の理想に到達せんことを期す」とするなど、暴力を排した合理的運動を志向する姿勢を強調した[6][8]。しかし、創立後に若い活動家が流入すると、日農内ではマルクス・レーニン主義の勢力も強くなっていく[9]。主張としては「耕地の社会化」「小作立法の確立」「普通選挙」などを掲げた[7]。日農は創立後まもなく、藤田農場争議や郡築小作争議といった大争議を指導し、影響力を急速に拡大させる[10]。
日農関東同盟
日農の総本部は大阪に設けられて、当初の組織は西日本に偏していた[11][12]。一方の関東では、日本労働総同盟(総同盟)の鈴木文治を理事長に据えて、1922年10月14日に日本農民組合関東同盟(関東同盟)が結成された[12]。関東同盟は日農の一機構と位置づけられながらも、別個の組織として活動した[13][14]。関東同盟には、早稲田大学の学生団体であった建設者同盟から和田巌・平野力三・三宅正一・大西十寸男・浅沼稲次郎・川俣清音らが参加したほか、総同盟関係者から赤松克麿・野坂参三・松岡駒吉・上条愛一ら、地方の指導者からは須永好らが参加した[12]。また、関東同盟は有馬頼寧・北沢新次郎らの援助を受けた[12]。関東同盟は木崎村小作争議(新潟県)や強戸争議(群馬県)、鏡中条争議(山梨県)などを通じて、全国の争議運動に大きな影響を及ぼした[15][14]。機関紙としては『日本農民新聞』を発行した[14]。1925年末時点で関東同盟傘下の組合数は261、組合員数は約1万7千人[16]。
関東同盟は学生運動出身者の多かったことから、当初は賀川・杉山の率いる関西側より急進的であったとされる[17]。1923年(大正12年)2月の日農第二回大会では、関西側が普通選挙運動促進論を主張したのに対して、関東同盟側は鈴木文治・平野力三が普選運動反対論を主張した[17][18]。
無産政党の結成
第2次護憲運動によって普通選挙導入が間近に迫り、無産政党結成への機運が高まると、日農がそのイニシアチブを取ることとなる[18]。1924年7月、日農中央委員会は無産階級の組織を中心とした無産政党を樹立する方針を決定し、日農内に無産政党組織準備委員会を設置する[19]。1925年6月、日農は全国の労農団体に向けて、無産政党の組織準備のための会合を提唱する[19]。同年8月、日農の主導により無産政党組織準備会が開かれる[9]。しかし、この準備会においては日本労働総同盟(総同盟)系の右派と日本労働組合評議会(評議会)系の左派が対立し、両団体は準備会から脱退する[20]。同年12月1日、日農は残留団体とともに農民労働党を結成するが、治安警察法により即日解散となる[20]。翌1926年3月、日農や総同盟が中心となって、あらためて労働農民党(労農党)を結成し、労農連合の初の全国的単一無産政党が誕生する[8]。当初の労農党は評議会、政治研究会などの共産主義色のある団体を排除する方針を取った[21]。それに対して、左派からは門戸開放の要請が強まり、最終的には評議会などの左派も受け入れることとなった[22]。
左右対立と分裂
日農内で左派の勢力が強まると、左右対立が激化し、分裂を繰り返す。1926年3月、日農第五回大会で日農関東同盟の廃止が決定され中央集権化が進められて、鈴木文治や平野力三の地位が弱められる[23]。右派の平野は日農を脱退し、新たに全日本農民組合同盟(全日農同盟)および日本農民党を結成する(第一次分裂)[23]。
1926年12月、日農幹部の須永好・浅沼稲次郎らは、日本労働総同盟の中間派とともに日本労農党(日労党)を結成する[24]。日農内では、労働農民党を支持する中央委員会多数派と、日労党を支持する須永・浅沼らの対立が激化する[24]。1927年(昭和2年)1月、須永らが日農堅実派同盟を結成すると、日農中央常任委員会は須永・浅沼・三宅正一・三輪寿壮・行政長蔵らを除名処分とする[24]。堅実派同盟は杉山元治郎を理事長に据えて、新たに全日本農民組合(全日農)を結成する(第二次分裂)[24]。
1928年、三・一五事件で日農内の左翼勢力も大きな打撃を受ける中、日農・全日農同盟・全日農の各代表は農民統一に向けて協議を始める[25]。結局、平野らの全日農同盟を除く形で、全国農民組合(全農)が結成される[25]。全農においては、日農分裂の教訓から「政党支持自由の原則」が採択されることとなる[25]。