須永好

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生年月日 1894年6月13日
出生地 日本の旗 日本 群馬県新田郡強戸村大字成塚(現・太田市成塚町
没年月日 (1946-09-11) 1946年9月11日(52歳没)
須永 好
すなが こう
生年月日 1894年6月13日
出生地 日本の旗 日本 群馬県新田郡強戸村大字成塚(現・太田市成塚町
没年月日 (1946-09-11) 1946年9月11日(52歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都葛飾区亀有
出身校 群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校) 中退
所属政党 社会大衆党
日本社会党
親族 須永城次(三男、太田市議会議員)
須永徹(孫、衆議院議員)
選挙区 群馬県
当選回数 2回
在任期間 1937年 - 1942年
1946年4月 - 1946年9月11日
強戸村会議員
当選回数 1回
在任期間 1935年 - 1937年
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須永 好(すなが こう、1894年明治27年〉6月13日[1][2][3][4] - 1946年昭和21年〉9月11日)は、日本農民運動家政治家衆議院議員(2期)、強戸村会議員。香川県の「伏石事件」、新潟県の「木崎争議」とともに日本三大小作争議の1つとして有名な「強戸争議」を主導した[5][6]。農民運動の指導は合法主義で、争議による処罰者を出さなかったと言われている[7]

生い立ち

1937年

群馬県新田郡強戸村大字成塚(現・太田市成塚町[1][2][5][3][4]に、須永伊平・つやの次男として生まれる[1][2][4][6]。長男は早世したため事実上長男として育つ[1][4]。実家は絽機屋を営む裕福な農家であった[1][3][4]。地元の強戸小学校を経て[1][2][8]、旧制群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)に進学する[1][2][8]。しかし、祖父・高次郎が病臥したことと、父が政治にのめり込んで武藤金吉の子分となり新田郡会議員となって家庭を顧みなくなったため、1909年明治42年)に太田中学校を退学して農業に従事する[1][9]。祖父は翌年死去した[1][9]1911年(明治44年)には「品行方正、業務に勉励」であるとして強戸村農会長から善行賞を受ける[2][10][4]。この時期安部磯雄堺利彦山川均の著作を読み社会主義思想を研究する[1][11]

1914年大正3年)徴兵検査を受け甲種合格となり、高崎歩兵第15連隊第9中隊に入営、上等兵に昇進して1916年(大正5年)に除隊[1][2][12]。軍隊で簿記の勉強をしたという[1][12]。翌1917年(大正6年)に沢野村細谷の青木春吉の娘・みすと結婚[1][2][13]

小作人組合の結成

1920年(大正9年)に岐阜愛知小作争議の視察を行ったが、このときは村人の煽動や集会を行うには至らなかった[14]1921年(大正10年)、強戸村の小作人たちに小作人組合の結成を働きかけ、11月5日に強戸村役場2階の会議室で規約の審議と須永の組合長選出を決定し、7日に各支部で調印が行われて組合員520名からなる強戸村小作人組合が誕生した[15]。須永は村長に地主組合を組織するよう働きかけ、岡部駒次郎(岡部周治の父)を会長とする強戸村地主会が発足した[16]。両者の交渉は11月21日に開始されたが、小作料の3割軽減を求める小作人組合に対し、1割5分程度の軽減に抑えたい地主会は村長に言い置いて帰ってしまったので小作人らは激昂した[17][16]。須永は上京して日本労働総同盟鈴木文治に講演を依頼[17][18]。これに対し太田署内務省からの指示を受けて講演会の中止に動き、その中止を条件に太田署の妥協を得て、地主会に小作料3割減の要求を呑ませることに成功した[17][19]。協定書が結ばれたのは12月8日のことだった[2][19]

1922年(大正11年)4月、神戸で開催された日本農民組合創立大会に参加し、その理事に選出された[20][2][21]。帰郷した須永は強戸村小作人組合を農民組合に改組することを提案し、強戸村農民組合が発足した[20][21]。強戸村の小作争議は建設者同盟からも注目され、機関誌『建設者』に須永は「小作争議を起す迄」という文章を掲載しているほか、建設者同盟主催の演説会に登壇するなど関係を深めたが、須永は群馬県下の思想グループとは距離を置いていた[22]。1922年(大正11年)秋、強戸村農民組合は村税の不納を決議し村会議員の辞職を迫った[20][23]。農民組合は小学校児童の同盟休校や消防手の辞職といった手段を講じたため、村吏が全員辞職する事態となり、県は天田俊蔵を村長臨時代理として職務を行わせることとした[20][24]。この年11月2日には小作人組合結成1周年を記念して鈴木文治の講演会も催された[2][23]。須永は強戸産業組合を組織することを計画し、12月13日に認可を受けたが、これは小作人のみで設立された産業組合の最初のものだった[20][24]

1923年(大正12年)に農会法が改正され強戸村農会総代選挙が行われると、小作人側は定数25に対し17名の当選者を出し、須永はその副会長、そして郡農会代議員となった[20][25]。6月には前橋に須永や北甘楽郡畑桃作らが集まり、上毛農民同盟を結成した[26]。9月に行われた群馬県会議員選挙に須永は新田郡から立候補したものの、当選は果たせなかった[20][2][26]。1924年(大正13年)1月、日本農民組合群馬県連合会創立大会を賀川豊彦を招き高崎で開催し、須永はその会長に選ばれた[27]。また11月には農民学校を開校して須永が農学や政治、法規について指導を行った[28]

「無産強戸村」の誕生と終焉

1925年(大正14年)に強戸村会議員の改選を迎え、定数12に対して農民組合から8名、産業組合から1名の当選者を出し、小作人側がその多数を占めるに至った[20][29]。この年普通選挙が実施されるにあたって政党設立の動きが活発となり、12月に農民労働党が結成され須永は中央執行委員の1人に選ばれたが即日解散が命じられ、翌1926年(大正15年)3月5日に杉山元治郎を中央執行委員長として結党された労働農民党に中央執行委員として参加した[30]。強戸村では村議会で小作人側が多数派を占めるようになったとはいえ村長はじめ執行部については地主あるいは中立派に委ねていたものの、1926年(大正15年)12月に村長が辞職したことで原島岡右衛門が村長に就任し、助役や書記も農民組合から出すこととなった[20][2][31]。これにより議会・執行部の双方を農民組合が掌握する「無産強戸村」が成立し、全国的な知名度を上げることとなった[20][31]1927年(昭和2年)には農会総代改選があり組合側は当選者を1名増やし、会長など役員を農民組合が独占することとなった[32]。9月の県会議員選挙に須永は農民労働党公認で立候補したが落選[33]1928年(昭和3年)には強戸村農民組合婦人部主宰で強戸共愛女塾が開設された[2][34]。この年最初の普通選挙として実施された第16回衆議院議員総選挙に立候補したが落選[2][35]。この年無産政党の合同により日本大衆党が結党されると須永も参加し、翌年には統制委員長に選ばれた[36]

1929年(昭和4年)強戸村会議員の改選では地主側の巻き返しにより農民組合6名、地主側6名の同数の当選者となった[20][2][37]1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙には日本大衆党公認で立候補したものの社会民衆党が大沢一六を立候補させたこともあり苦しい選挙戦となり、どうにか供託金没収を免れるという状況であった[38]。この年の7月再び無産政党が合同して全国大衆党が結党されると須永は中央委員となった[2][39]1931年(昭和6年)の農会代議員改選では農民組合から13名、地主側から12名の当選者となった[40]。5月21日には強戸農村問題研究所を開設[2][41]。この年7月に全国労農大衆党が結党されると須永は中央執行委員となり[2][42]、9月の県会議員選挙では同党から大島義晴を立候補させた[42]1932年(昭和7年)7月に社会大衆党が結党されて無産政党の統一が実現すると常任中央執行委員に選ばれた[2][43]

1932年(昭和7年)、昭和恐慌による失業救済対策として小学校校舎の増改築が強戸村会の議題となり紛糾を招いた[44]。9月12日に須永は太田署に拘束され26日に強戸産業組合が解散させられるという圧力が加えられたが、産業組合の業務は農民組合産業部によって引き継がれた[2][44]。この年地主側は税金不納による抵抗を試み、村当局が収穫前の稲を差し押さえる紛糾を見せた[2][45]。須永は社会大衆党新田郡支部連合会結成大会を朝日座で開こうとしたことに対して11月26日に太田署に検束された[45]

1933年(昭和8年)5月の村会議員改選では須永自身も立候補して当選はしたものの、農民組合5名、地主組合を改めた自治会7名と逆転を許す結果となった[20][46]。多数派となった自治会側と小作人の対立が深刻化したため、宇都宮憲兵隊長の加藤泊治郎中佐が仲介に入って和解が進められ、加藤中佐は今後両者の協調が破れたらこの刀を2つに折ってほしいと言って行光の銘刀を村に贈った[47]1935年(昭和10年)の農会総代改選で自治会6名、農民組合5名の当選となり[48]、4月10日に阿久津栄太郎村長が任期を満了して県から派遣された天笠清に引き継いだことで10年におよんだ村執行部の農民組合による掌握は終わりを告げた[20][2][48]

国政進出

1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙にも立候補したが落選[49][2][50]。強戸農民組合では9月17日に工場が稼働を開始し、農村工業化が進められた[2][51]

1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙でとうとう衆議院議員に初当選を果たした[49][2][52][4]。他方翌月の村会議員選挙では農民組合5名、自治会7名と勢力図は変わらなかったものの須永は落選してしまった[52]。須永は衆議院では農林委員となった[49][53]。8月から9月にかけては田原春次井上良二野溝勝永江一夫とともに満洲移民の視察に出向いている[53]。11月に吾妻郡小串鉱山で発生した災害にも奔走[2][54]。また1938年(昭和13年)8月にも満洲移住地小作農視察団の団長として満洲を視察[55]1939年(昭和14年)10月には桜井平五郎を団長とするタイ国親善視察団の一員としてタイを訪問[56]。11月29日に由谷義治を会長として発足した農地制度改革同盟の常任理事となっている[56]1940年(昭和15年)社会大衆党が解党し、9月23日には強戸農民組合も解散することとなった[2][57]

1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で立候補したが、落選する[49][2][58]1943年(昭和18年)7月26日には長男・祐三が各務原飛行場で飛行機事故により殉職した[49][2][59]

戦後

1945年(昭和20年)太平洋戦争が終結すると社会主義政党結成準備懇談会に参加、11月2日日比谷公会堂で行われた日本社会党結党大会に出席[49][2][60]、須永は中央執行委員に就任した[49][2]。12月4日には日本社会党群馬県連合会が結成され須永が会長に選出された[61]。また10月18日には新田郡農民組合結成大会が開かれ、大島義晴が会長となった[60]1946年(昭和21年)2月9日、日本農民組合創立大会が開かれ、須永は組合長に就任した[49][2][62]

地元の陸軍生品(新田)飛行場の払い下げ・開拓を提唱し[49][63]、1945年(昭和20年)10月15日に新田飛行場開拓組合協議会の委員長に就任して[2]翌年1月には入植を実現した[63]。4月の第22回衆議院総選挙で社会党公認で立候補し当選して国政に復帰[49][2][64]。議員在職中の同年9月10日、農地制度改革案に関する代表質問を行った直後に倒れた[49][2][65][6]。葛飾区亀有の寄寓先へ搬送されたが、翌日午前4時に死去した[49][2][4]

葬儀は10月1日に築地本願寺で日本農民組合葬として行われ、郷里でも10月13日に強戸国民学校で日本社会党県連・日本農民組合県連合同葬として営まれた[49][66]。戒名は田中院殿徳光普照大居士[49][66][4]。菩提寺の永昌寺に「須永好之碑」、新田開拓地に「須永地蔵」が建立されている[49][67][4][6]

三男の城次は太田市議会議員を務め、城次の子・は日本社会党の衆議院議員を務めた。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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