八栄里村
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| やえざとむら 八栄里村 | |
|---|---|
| 廃止日 | 1954年12月1日 |
| 廃止理由 |
新設合併 余目町、大和村、十六合村、常万村、栄村、八栄里村 → 余目町 |
| 現在の自治体 | 庄内町 |
| 廃止時点のデータ | |
| 国 |
|
| 地方 | 東北地方 |
| 都道府県 | 山形県 |
| 郡 | 東田川郡 |
| 市町村コード | なし(導入前に廃止) |
| 面積 | 5.64 km2. |
| 総人口 |
1,640人 (国勢調査、1950年) |
| 隣接自治体 | 余目町、大和村、十六合村、常万村、栄村、長沼村 |
| 八栄里村役場 | |
| 所在地 | 山形県東田川郡八栄里村 |
| 座標 | 北緯38度50分15秒 東経139度54分21秒 / 北緯38.83761度 東経139.90594度座標: 北緯38度50分15秒 東経139度54分21秒 / 北緯38.83761度 東経139.90594度 |
| ウィキプロジェクト | |
- 河川:京田川
歴史
- 慶長17年(1612年) - 広大な原野であったこの地の開発のきっかけとなる北楯大堰が完成する[1]。
- 寛永年間 - 茗荷瀬村が開発される[2]。
- 寛永元年(1624年) - 大野村が開発される[3]。
- 寛永3年(1626年) - 庄内藩士鈴木久右衛門によって西小野方村が開発される[4]。
- 慶安2年(1649年) - 長谷川権左衛門によって吉岡村が開発される[5]。
- 慶安4年(1651年) - 払田村が開発される[6]。
- 1876年(明治9年)1月8日 - 生田新田村が吉岡村に合併する[7]。
- 1890年(明治23年)10月28日 - 五七里村の一部(大字大野・島田・茗荷瀬・
田谷 ・西小野方・払田・近江新田・吉岡)が分立して八栄里村発足[8]。 - 1894年(明治27年)10月22日 - 庄内地震により村内5人死亡、67戸が全壊[9]。
- 1943年(昭和18年)10月30日 - 町役場移転[10]。
- 1953年(昭和28年)5月1日 - 十六合村との境界を変更[11]。
- 1954年(昭和29年)12月1日 - 余目町・大和村・十六合村・常万村・栄村と合併し、改めて余目町が発足、同日八栄里村廃止[12]。
地名
小字の出典は『山形県地名録』256-257頁による。
大字吉岡
小字:吉岡・奥佐戸・小佐戸・赤佐戸・荒田・奥南・上南・上川前・下川前・北川前・北前・中南・下南・中割・沼田・奥沼田・東北裏・西北裏・道端
大字大野
小字:大野・大塚・
大字近江新田
小字:近江新田・大西・村上・村下
大字嶋田
小字:嶋田・新田・
大字田谷
小字:
大字西小野方
小字:西小野方・岩瀬・北田・三軒屋敷前・中田・西農・墓廻り・村東・村西
大字払田
小字:払田・掃部裏・サビ・八間・増穂田・村東・村西
大字茗荷瀬
小字:茗荷瀬・大縄・仲縄・岡田・蒲原・上谷地・仲谷地・北谷地・南谷地・
村長
| 代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1-2 | 仁科理右衛門 | 1891年(明治24年)4月13日 | 1898年(明治31年)7月29日 | 1891年3月末まで五七里村村長[13] |
| 3 | 安倍親名 | 1898年(明治31年)10月28日 | 1901年(明治34年)4月16日 | |
| 4-8 | 花岡證意 | 1901年(明治34年)5月15日 | 1921年(大正10年)5月15日 | |
| 9 | 渡部治左衛門 | 1921年(大正10年)5月16日 | 1922年(大正11年)12月8日 | |
| 10 | 1923年(大正12年)8月6日 | 1924年(大正13年)8月11日 | ||
| 11-13 | 皆川松清 | 1925年(大正14年)2月5日 | 1936年(昭和11年)9月11日 | |
| 14 | 高山兵右衛門 | 1936年(昭和11年)11月2日 | 1940年(昭和15年)11月1日 | |
| 15 | 石垣多右衛門 | 1940年(昭和15年)11月1日 | 1942年(昭和17年)9月16日 | |
| 16 | 佐藤廓髄 | 1942年(昭和17年)10月3日 | 1943年(昭和18年)10月24日 | 在任中に死去[14] |
| 17 | 渡部徳三 | 1943年(昭和18年)12月6日 | 1946年(昭和21年)10月31日 | |
| 18-19 | 佐藤市之助 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1954年(昭和29年)11月30日 | 八栄里村廃止 |