六川亨 From Wikipedia, the free encyclopedia 生誕 (1957-09-25) 1957年9月25日 日本・東京都板橋区死没 (2025-11-17) 2025年11月17日(68歳没)職業 サッカージャーナリスト活動期間 1981-2025ろっかわ とおる 六川 亨生誕 (1957-09-25) 1957年9月25日 日本・東京都板橋区死没 (2025-11-17) 2025年11月17日(68歳没)職業 サッカージャーナリスト活動期間 1981-2025著名な実績 「サッカーダイジェスト」編集長などテンプレートを表示 六川 亨(ろっかわ とおる[1]、1957年9月25日[2] - 2025年11月17日)は、日本のサッカージャーナリスト。 兄はサッカーカメラマンの六川則夫[3]。 東京都板橋区出まれ[1]。板橋区立板橋第一小学校、板橋区立板橋第一中学校、東京都立文京高等学校を経て法政大学を卒業後、1981年に大学時代からアルバイトをしていた日本スポーツ企画出版社に入社し、サッカーダイジェスト編集部に配属になる[4][5]。1988年からは「サッカーダイジェスト」編集長を歴任し、1993年のJリーグ発足を機に週刊化への先鞭をつける[5]。 2001年に日本スポーツ企画出版社を去りフロムワンに入社。富樫洋一が立ち上げた「CALCIO2002」の編集長を受け継いだほか、「サッカーズ」「totoONE」「プレミアシップマガジン」「浦和レッズマガジン」の創刊に携わった[4]。 2010年にフロムワンを去り独立。フリーランスのサッカージャーナリストとして活動を開始する[4]。独立前を含め、FIFAワールドカップには1986年メキシコ大会から2018年ロシア大会まで、1994年アメリカ大会・1998年フランス大会を除いた7大会を現地取材したほか、AFCアジアカップやコパ・アメリカなどにも取材に赴いた。 2022年7月、肺炎を発症した際の治療の際にステージⅢの肺癌の診断を受ける[6]。以後、取材活動を続けながら治療を続けたが、2025年11月17日朝に死去。68歳歿。死去の当日には日本代表監督の森保一が、翌日行われるキリンチャレンジカップ・ボリビア戦の公式記者会見の席上で涙を浮かべながら六川の死を悼んだ[7]。 出典 1 2 “六川亨(ろっかわとおる)”. サッカー批評. 2025年11月17日閲覧。 ↑ “六川亨”. 超ワールドサッカー. 2025年11月17日閲覧。 ↑ “これが噂の六川兄弟”. 森雅史の Football Is Alive (2013年12月8日). 2025年11月17日閲覧。 1 2 3 “略歴”. 六川亨ステージⅣ. 2025年11月17日閲覧。 1 2 宇都宮徹壱 (2017年11月16日). “1997年 ジョホールバルとJの危機<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」”. Yahoo!スポーツナビ. 2025年11月17日閲覧。 ↑ “このサイトを始めるにあたって(闘病記1 癌とわかるまで)”. 六川亨ステージⅣ (2024年8月1日). 2025年11月17日閲覧。 ↑ “森保一監督の目に涙…17日に逝去したサッカージャーナリスト六川亨さんを追悼「本当に感謝の思いでいっぱいです」”. サッカーキング (2025年11月17日). 2025年11月17日閲覧。 外部リンク 六川亨 ステージⅣ(公式サイト) Related Articles