永井陽右は朝日新聞に寄せたコラムで、人々は無意識のうちに対象に共感を与えるだけの正当性があるかどうかを判断しており、自分にとって共感するだけの正当性が無い人間には共感が集まりにくいと述べている[5]。
例えば、永井が同コラム内で挙げている「ギャンブルに失敗して全てを無くし、金も食料も底をついて道端に力なく座り込む、今にも餓死しそうな60歳の黒人男性」と、「内戦に追われて難民となり、独りぼっちで食べるものが無く服もボロボロで今にも餓死してしまいそうな10歳の白人の女の子」はどちらも人間として抱いている苦痛はまったく同じであるが、永井が述べるには、後者のほうに同情が集まりやすく、さらに自分と政治的に敵対するコミュニティーに属している人となれば、「いい気味だ」とすら思うかもしれず、結局のところ共感は「どこまでも個々人が持つバイアスに振り回されることになり、結果として共感はスポットライト的性質とある種の指向性を持つ」という。
永井はそれを踏まえ、「だからこそ、共感できない・共感されにくい人をなおざりにしないために、共感に代わるものが必要となる。私はそれこそが「権利」だと思うのだ。共感できる・できないに一切の関係なく、全ての人には人権があり、無条件に尊重されなければならない。その射程は、共感の及ぶ範囲をはるかに越え、全ての人が含まれるべきだ。」と結論づけている[5]。