別伝 (中国)
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修史の興隆
魏晋南北朝時代は、国家・私家を問わず歴史編纂(修史事業)が極めて興隆した時期であった。当時分立した各政権は、史書の編纂を通じて自らの正統性を主張し、他勢力を排することを目的とした公的な修史を盛んに行ったが[1]、それと並行して、戦乱による社会的混乱の影響を受けた私家による編纂も活発化した。私家編纂の目的は、社会混乱の源流を探究することや、自らの家門の起源を示し称揚することにあり[2]、一族の先賢や世族を対象とした立伝が盛んに行われた[3]。
「個」の肯定
こうした背景に加え、後漢末期から続く人物評(月旦評)の流行が別伝の製作を後押しした。当時の政治的混迷に起因する社会不信は、儒家思想の支配力を弱め、個人の意識を国家から切り離す契機となった。それまで儒教的な道徳規範(孝、忠など)の枠内に限定されていた個性が解放され、人々の意識は国家への奉仕から、個人、一族、地域社会、あるいは友人間の信義へと向けられるようになった。これは一種の儒教的価値観からの脱却を意味していた[4]。こうした非儒教的な新しい人間像の発展を総括したのが、逸話集『世説新語』であり、その登場人物の多くが別伝の被伝者(記述対象者)と重なっている[5]。
曹操による「求賢令(唯才主義)」は、従来の才徳兼備という儒教的理想を打破し、人間を才能や名実(形名)の観点から観察する新しい基準をもたらした。さらに魏晋の交替期を経て、嵆康や阮籍に代表される玄学が「名教(礼教)を越えて自然に任ず」という境地を提示したことで、個人は伝統的な礼法の制約から脱却し、自らのありのままの性質を肯定するに至る。逯耀東によれば、別伝の「別」という言葉には、単に「正史とは別系統」という意味だけでなく、個々人が他者とは異なる独自の性格を有しているという、個の独自性に対する尊重と肯定の意識が内包されていたとする[6]。
別伝の源流
元来、中国の正史(列伝)は、地方から中央へ報告される道徳的資料を国家が取捨選択する官製の記録であった[7]。しかし、これとは別に個人の実態を詳細に記録する私的な動きが、後漢の察挙制度(郷挙里選)を背景として以下の要素を伴い、別伝の誕生を促した[8]。
- 「挙状」:被選挙者が自らの才能、学問、容貌を誇示するために作成した自己申告資料。『漢書』「東方朔伝」に見られる詳細な容姿や事績の記述[9]は、後の別伝における個人描写の原型となった[8]。
- 「画讃」:肖像画に添えられた称賛文。当初は教化目的であったが、次第に虚偽を排した実録としての性格を強め、個人の伝記的条件を備えていった[10]。
- 「碑文」:後漢末期に流行した、門下生や元部下による功徳の記録。執筆者の個人的な追慕や顕彰を含みつつも、個人を単位とする叙述において別伝に極めて近い性質を有していた[11]。
このように、国家による画一的な評価ではなく、地域社会や師弟・主従関係といった私的な繋がりの中で個人を記録しようとする文化が醸成されたことが、独立したジャンルとしての「別伝」が開花する土台となった[11]。
特徴
叙述形式と対象
| 別伝の総数[12] | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 戦国 | 前漢 | 後漢 | 三国 | 西晋 | 東晋 | 合計 |
| 1 | 5 | 12 | 52 | 46 | 95 | 211 |
名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象人物に関する雑多な逸話を包含しており、正統とされる史書(歴史書)とは異なる視点を有している[13]。政治的色彩を持たず、儒教的道徳規範に従い特定の模範的人物像を捏造せず、後世の鑑や戒めとするための生身の典型を残すことにあった魏晋別伝は、社会性を持った個人の伝記であった[14]。また、個人を活写するために小説的な叙述技法が用いられるなど[15]、後世の文学発展にも寄与している。記述対象は名士層に留まらず、武将、医者、女性など、当時は社会的に重きを置かれなかった階層にまで拡大し、多様な広がりを見せた[16]。
なお、別伝には著者不明の作品が多い。裴媛媛によれば、その要因は逸名(名前が失われたこと)だけではない。成立初期の別伝は書面化されない逸聞の集成に過ぎず、引用した後の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたことや、複数の情報源に由来していたことも影響している[17]。
性質の変遷
三国時代から西晋にかけて、別伝は世家大族(名門家系)の地位を維持するための実用的な「道具」へと変質していく。その背景には、門閥社会を支える「九品官人法」の存在があった[18]。
もともと後漢末の戦乱によって地方の察挙制度が機能不全に陥り、人物評価と実態の乖離が弊害となっていたことから、それに対応すべく設置されたのが九品官人法である。この制度下では、被選者の才能や徳行だけでなく、先祖の官職や一族の名望、そして中正[注釈 1]による評定(品状)が詳しく記録される仕組みとなっていた[20]。こうした制度上の需要に応じる形で、人物評価に適した形式を持つ別伝の制作が流行する[20]。当時の名門子弟の多くはキャリアの初期に著作佐郎などの史料編纂ポストに就いたが、彼らには在職中に「名臣伝」を執筆する義務があった[21]。そのため、吏部に保存された詳細な「品状」の資料を加工して伝記を完成させることが常態化し、別伝は門閥社会における身分証明や家系をアピールするための資料としての役割を担うようになる[22]。
また、九品官人法における斉名(同格評価)や輩目(格付け)といった比較の手法も別伝に反映された。婚姻関係にある家族同士で互いに評価を高め合う類比的な評論は別伝の固定的な形式となり、閉鎖的な門閥社会内部での権威付けに利用された。さらに、地域性を誇る「先賢伝」なども別伝を基礎として形成され、郷里の俊英さを競う手段となった。こうして「個人の実録」であった別伝は[23]、門閥組織の格付けを維持するための政治的・社会的なツールへと進化・定着していった[24]。
史料的価値と諸問題
逯耀東によると、現存する211種の別伝のうち、著者が考証可能なものは以下の27種・22名にすぎない。三国時代の2名を除き、その大半は両晋(西晋・東晋)時代の人々である[25]。
| 著者および関係が判明しているもの | 著者が判明しているもの | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 時代 | 被伝者 | 著者 | 関係 | 出典 | 時代 | 被伝者 | 著者 | 出典 |
| 西晋 | 辛憲英 | 夏侯湛※1 | 外孫 | [26] | 三国 | 曹操 | (呉の人物) | [27] |
| 西晋 | 羊秉 | 夏侯湛※1 | 姻戚 | [28] | 西晋 | 荀粲 | 何劭※1 | [29] |
| 東晋 | 顧悦之 | 顧愷之 | 父子 | [30] | 西晋 | 王弼 | 何劭※1 | [31] |
| 東晋 | 曹肇 | 曹毗※1 | 同族 | [32] | 東晋 | 杜蘭香 | 曹毗※1 | [33] |
| 西晋 | 顧譚 | 陸機 | 姻戚 | [34] | 東晋 | 山濤 | 袁宏 | [35] |
| 三国 | 張昌蒲 | 鍾会 | 母子 | [36] | 東晋 | 王湛 | 謝朗 | [37] |
| 西晋 | 傅巽 | 傅玄※1 | 同族 | [38] | 東晋 | 郭文※2 | 葛洪 | [39] |
| 西晋 | 馬鈞 | 傅玄※1 | 知人 | [40] | 東晋 | 郭文※2 | 庾闡 | [41] |
| 西晋 | 焦先 | 皇甫謐 | 尊崇 | [42] | 東晋 | 孫登 | 孫綽 (東晋)※1 | [43] |
| 西晋 | 嵆康※2 | 嵆喜 | 兄弟 | [44] | 東晋 | 嵆康※2 | 孫綽※1 | [45] |
| 西晋 | 管輅※2 | 管辰 | 兄弟 | [46] | 東晋 | 管輅※2 | 閭纘 | [47] |
| 西晋 | 任嘏 | 陳威ほか | 部下 | [48] | 東晋 | 阮籍 | 江逌 | [49] |
| 東晋 | 孟嘉 | 陶潜(陶淵明) | 外孫 | [50] | ||||
| 西晋 | 趙至 | 嵆紹 | 親交 | [51] | ※1…複数の著作がある人物。 | |||
| 東晋 | 顔含 | 李闡 | 姻戚 | [52] | ※2…複数の人物によって別伝が存在する人物。 | |||
著者が判明している別伝の多くは、被伝者と血縁・婚姻関係者、元部下や友人といった近親者によって伝が立てられている[53]。これは当時の門閥制度が史学の形態に強く影響を及ぼしていたことを意味しており、別伝は士族(貴族)に属する文人層によって掌握され、家柄を標榜する手段として家伝に近い役割を担っていた。支遁や仏図澄といった仏教関連人物の別伝も存在するが、彼らも名士的気風を有し士族と密接に交流していたことから、広義には士族文化の一環として捉えられる[54]。
著者と被伝者が近親・近接関係にあることは、詳細な情報を得られたという利点がある反面、対象を賛美する顕彰傾向を免れなかった。『三国志』の注釈者である裴松之が指摘するように、孫資の『孫資別伝』のような家伝由来の記述には当人の失点を隠蔽したものが存在し[55][56]、顔師古も『漢書』注において、東方朔の別伝を「事実に即していない」と難じたように[57]、確証に欠ける怪異譚などが収録されることもあった[58]。
衰退
評価
別伝の評価は、その信憑性を国家編纂の正史と比較して相対的に低く見る視点と[61]、正史を補完する貴重な史料として重視する視点[62]の、大きく二つに分かれる。
また、両晋代に成立した別伝は門閥社会の成立と密接に関わっていることから、矢野主税や渡邉義浩らは、著者不明の作品含め、これらが門閥社会での人物評価あるいは貴族の権威付けを目的として書かれたものと見なしている。矢野は門閥社会における当時の貴重な人物評であると肯定的評価を与えているが[63]、渡邉は個人の名声を高めるための偏向の多い史書と論じている[64]。
一方で永田拓治は、これら先行研究に対し、別伝の成立背景や史料的価値は後漢・三国・西晋・東晋の四時期で変遷していることを指摘し、一律に貴族への一元化と見なす主張に疑問を呈した上で、それぞれの時代区分に即した慎重な検討の余地があると述べている[65]。