別所吉治

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生誕 天正7年(1579年
死没 承応元年7月13日(1652年8月16日)または承応3年7月13日1654年8月25日
別名 豊治、孫四郎[1]、孫七郎、孫右衛門(通称
 
別所 吉治
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正7年(1579年
死没 承応元年7月13日(1652年8月16日)または承応3年7月13日1654年8月25日
別名 豊治、孫四郎[1]、孫七郎、孫右衛門(通称
官位 従五位下豊後守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
但馬八木藩
氏族 別所氏
父母 別所重宗福島正信[2]
兄弟 吉治宗治重家信範福島正之福島正宣別所孫次郎室ら
正室:山崎片家
継室?:福島正信
守治
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別所 吉治(べっしょ よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名但馬国八木藩主。

別所重宗の子で、豊臣秀吉の又従弟に当たる。異説として吉治は別所長治の子で、天正8年(1580年)に三木城が開城した際、2歳で落ち延びたとも言う[3][注 1]

天正19年(1591年)に家督を相続、文禄元年(1592年)の文禄の役では京城に出陣し、帰朝後は伏見城の普請を分担した[3]

慶長2年(1597年)において丹波国園部に1万5千石を領していた[3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して丹後田辺城攻撃攻撃に参加したが、 戦後、所領を安堵された[3]。『丹波志』によると、戦後吉治は一旦改易されたものの、徳川秀忠の乳母であった吉治の伯母が「自分は赤松円心の末裔であるから、同苗の別所吉治の改易を見るのはしのびない」と秀忠に頼んだため、秀忠は彼女に北由良に封地を与えて大坂で流浪していた吉治をその養子としたという[4]。また、義弟の孫次郎が東軍に与した功によるともいう。

慶長20年(1615年)の大坂の陣では徳川方として従軍して首級7つを挙げ、戦後に丹波国何鹿郡に2万石を与えられたが[5]寛永5年(1628年)に仮病で参勤を怠り鷹狩を行っていたことを幕府に知られて改易された。除封後は円通寺に入って剃髪し、その後各地を流浪したという[6]

承応元年(1652年)7月13日もしくは承応3年(1654年)7月13日、死去[7]

また、長男の守治慶安元年(1648年)に赦免されたのち1,000俵を与えられ、子孫は700石の旗本として存続した[8]

改易の理由

吉治は特に悪政を行ったという形跡もなく、改易の理由も「病と称して鷹狩りに興じて参勤を怠った」という理由以外に、前出の秀忠の乳母を粗略に扱ったから、など諸説あり、その改易された正確な年月日すらも諸説あってはっきりとしていない。また同じような理由で改易された人物も少ない。

幕府が、こじつけのような理由をつけてまで改易までに至らしめた理由については諸説あるが、弟・正之が福島正則の養子となっている事、関ヶ原の戦いで西軍に属して丹後田辺城を攻めた経緯があることなどから、安定期に入った江戸幕府から旧豊臣系の大名として認識され、外様大名の改易政策の一環として目をつけられていたからではないか、とする考察がある(細見末雄宿南保など)。また、当時幕府が次々と全国の金山銀山直轄領とする政策を打ち出していたが、吉治が但馬国養父郡中瀬鉱山(中瀬金山)の金山奉行を務めていた関係もあり、これを幕府が取り上げる意図もあったのではないか、などともされている。

系譜

脚注

参考文献

外部リンク

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