劉鳳池
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| 劉鳳池 | |
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『軍事月刊』第4期(1940年) | |
| プロフィール | |
| 出生: | 1889年[1][注 1] |
| 死去: | 1945年(民国34年)[1] |
| 出身地: |
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| 職業: | 軍人・軍務官僚 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 劉鳳池 |
| 簡体字: | 刘凤池 |
| 拼音: | Liú Fèngchí |
| ラテン字: | Liu Feng-ch'ih |
| 和名表記: | りゅう ほうち |
| 発音転記: | リウ・フォンチー |
劉 鳳池(りゅう ほうち、1889年 – 1945年)は、清末民初の軍人・軍務官僚。別号は桐岡、相崗[1]。北京政府では当初直隷派に属したが、以後、奉天派・国民軍・山西派と渡り歩き、国民政府では新広西派に属した。中華民国臨時政府・華北政務委員会では、集団司令など要職をつとめている。なお、愛新覚羅溥儀の回顧資料に登場する同姓同名の別人は、本記事末尾で補足的に触れる。
清末・北京政府での活動
1907年(光緒33年)10月、北洋陸軍速成武備学堂第3期歩兵科を卒業。清朝では禁衛軍歩兵団排長、保定陸軍軍官学校歩兵科学兵連第2連排長、同連連長を歴任した[1]。
中華民国成立後の1914年(民国3年)2月、劉鳳池は北京政府から陸軍歩兵少校位を授与されている。1917年(民国6年)1月、北京陸軍大学第5期に入学すると、1919年(民国8年)8月に陸軍歩兵中校位に昇進し、同年12月に大学を卒業した[1][2]。
郭松齢麾下として
1922年(民国11年)6月、劉鳳池は直隷派の陸軍第13師(師長:王懐慶)で歩兵第50団団附となり、翌1923年(民国12年)11月、同団第2営営長となった[2]。その後は奉天派に転じ、東北陸軍第2旅旅長・郭松齢麾下となる。1924年(民国13年)2月、東三省陸軍第2旅歩兵第81団団長として遼寧省北鎮地区に駐屯した。同年9月、第2次奉直戦争に従軍し、戦後は東北陸軍第2軍団総指揮に昇進した郭の下で警衛旅副旅長、同旅長を歴任した[1]。
翌1925年(民国14年)11月、郭松齢が反張作霖蜂起を決行し、馮玉祥と結んで東北国民軍を立ち上げる。劉鳳池もこれを支持し、東北国民軍第3軍(軍長:范浦江)副軍長兼予備第1師師長として参戦した。しかし、郭の蜂起は失敗に終わり、東北国民軍第5軍軍長・魏益三に従って国民軍本体や閻錫山の晋綏軍(山西派)などを頼っている[1][注 3]。
国民政府での活動
1928年(民国17年)6月、国民政府の桂軍(新広西派)に移籍した劉鳳池は、国民革命軍第4集団軍第3軍団第30軍(軍長:魏益三)教導師師長に任命された[2]。同年8月、軍縮に伴い第4集団軍第11師(師長:王沢民)副師長となる。10月、部隊番号統一に伴い第54師副師長に重任し、翌1929年(民国18年)3月、同師師長代理となった[1]。
1932年(民国21年)6月、劉鳳池は軍事参議院参議に移り、1936年(民国25年)2月、陸軍少将位を授与された[2]。同年11月、国民革命軍誓師十周年記念勲章を授与されている[1]。
親日政府での活動
1937年(民国27年)12月、王克敏が中華民国臨時政府を創設すると、劉鳳池もこれに直ちに参加した。1938年(民国27年)1月、治安部(総長:斉燮元)で保衛局局長に抜擢されている[3][4]。ところが同年9月、劉は治安部総務局第一科科長・田文炳に保衛局局長の地位を取って替わられ[5]、しばらく待機状態となる[注 4]。翌1939年(民国28年)10月、劉は華北治安軍陸軍第1集団司令(駐屯地:北平)として復帰した[6]。
1940年(民国29年)3月、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。華北治安軍は華北綏靖軍に、治安部は治安総署に、それぞれ改組された。劉鳳池は、綏靖軍第1集団司令に重任している[注 5]。また、治安総署軍士教導団団長も兼務していたという[7]。翌1941年(民国30年)12月、劉は第1集団司令を離れ[8](後任は李定衡)、華北綏靖軍副総司令に移った[1][注 6]。1943年(民国32年)3月、王桂林の後任として内務総署警政局局長代理に派出されている[9]。
汪兆銘政権崩壊後、1945年内に劉鳳池は病没した[1]。享年57。