許蘭洲
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事績
清末の活動
湖南陸軍学堂を卒業し、1895年(光緒21年)、袁世凱の新建陸軍督練処に加入する。その後、袁の命により軍機大臣・栄禄邸の警護隊長となった。しかし、1901年(光緒27年)に暴行事件を2度起こしたために、懲罰や再教育を科せられている。一連の措置を経て張勲麾下に配属された[6]。
1906年(光緒32年)、張勲が東三省(総督:徐世昌)行営翼長として奉天に赴任したため、随従した許蘭洲は昌図に駐留した。1908年(光緒34年)、許は奉天巡防後路統領官[注 1]に任命され、鄭家屯と洮南府に駐屯している。この当時、東北部では反清武装勢力の蜂起[注 2]が横行していたが、現在の黒竜江省や吉林省の一帯では、許がこれら武装勢力の討伐で戦果をあげた[7]。
同年末、張勲が北京へ召還された際には、許蘭洲が黒竜江省地域の巡防統領として後事を託されている。翌1909年(宣統元年)、トクトホ・タイジ(陶克陶胡)討伐で許はまたしても軍功をあげたが、事後に軍紀不良を問われ、東三省総督・錫良から罷免を言い渡された。それでも1911年(宣統3年)10月、革命派討伐が必要となった黒竜江省巡撫・宋小濂の招聘に許は応じ、巡防隊統領官として再任用された[8]。
黒竜江省での軍事的台頭
中華民国成立後の1912年(民国元年)9月、許蘭洲は黒竜江省陸軍第2混成旅旅長に昇進し、翌月には陸軍少将位を授与された[9][注 3]。許は、引き続き反政権武装勢力(孫学武など)掃討に従事して戦果をあげ、袁世凱の賞賛を受けている[2][10]。
1913年(民国2年)8月、黒竜江省都督兼民政長の宋小濂がロシアの圧力により辞任に追い込まれると、後任として畢桂芳が黒竜江省都督兼民政長暫行護理に任命される。武装勢力掃討で袁世凱の信任を得ていた許蘭洲は、勢いに乗る形で黒竜江省の軍再編計画を着任したばかりの畢に突きつけた。畢は許の独断専行に怒り、両者は冷戦状態に陥ったが、軍権を全く掌握していない畢に対抗手段は無かった。同年10月、袁の配慮により、畢は弁理交渉事宜として北京へ召還された。朱慶瀾が後任の黒竜江省都督兼民政長署理として着任している[11]。
1914年(民国3年)5月、朱慶瀾が黒竜江省城(チチハル)の巡防隊につき軍縮措置をとろうとしたところ、反発した兵士たちが暴動を起こす。この際に許蘭洲は朱を擁護し、暴動を鎮圧した。7月、黒竜江省の軍再編が実施され、黒竜江陸軍第1師及び騎兵第1旅が組織された。9月、許は第1師師長署理に任命されて省城に駐屯し、翌1915年(民国4年)には陸軍中将位を授与されている[9][12]。
同年8月、袁世凱が皇帝即位への動きを表面化させると、朱慶瀾は他の14省の督軍たちと共に袁を支持した。ところが袁世凱との縁故が深かったはずの許蘭洲は[注 4]、黒竜江省内の軍隊や官紳の支持を取り付け、袁や朱への反対運動を開始した。これは許の個人的な野心、すなわち黒竜江省の軍事的・政治的実権の奪取が狙いとされている。護国戦争における袁の劣勢が明らかになるにつれ朱も追い込まれていき、1916年(民国5年)5月、ついに朱は黒竜江省督軍兼巡按使[注 5]を辞任することになった[12]。
黒竜江省掌握の失敗
この時点では袁世凱がまだ存命(6月6日死去)であった北京政府中央は、畢桂芳を黒竜江督軍署理兼巡按使に特任し、許蘭洲については黒竜江軍務幇弁に任命している[9]。許への牽制の意図は、政敵・畢の再起用からも明確であった。しかし、許は畢を無視して軍人事を進め、第1師参謀長・李景林を督軍署参謀長に、第1師副官処処長・楊雲峰を督軍署警務処処長に、それぞれ抜擢した[13]。
この同時期にはバボージャブ(巴布札布)が清朝復興を掲げて蜂起(第二次満蒙独立運動)しており、その後、張作霖軍との戦闘を開始した。許蘭洲は張麾下として討伐軍に参加すると、10月に林西でバボージャブを戦死せしめ、その残兵を収容している。同月に北京政府中央から陸軍中将銜や二等文虎章、二等嘉禾章を授与され[14]、1917年(民国6年)2月、黒竜江陸軍第1師師長として正式な任命を受けた[9]。
同年6月以降、かつての上司である張勲が愛新覚羅溥儀を復位させる動きを見せ、北京政府中央が混乱に陥る。この機に許蘭洲は畢桂芳へ軍事クーデターを仕掛け、6月16日には許が督軍兼省長[注 6]の職務をとると一方的に宣言した[15]。
ところが許蘭洲は、クーデターに参加した配下の処遇について口約束が過ぎ、麾下の旅長である英順、巴英額らは希望していた報酬・地位等を受け取れなかった。そのため2旅長は畢桂芳擁護に転じ、許と対峙することになる。黒竜江省内部は許派と畢派とに分かれ、北京政府中央に向けて正当性を双方が主張する内乱・割拠状況を呈した。また、張勲復辟を許は公然と支持したものの、復辟が短期間で失敗に終わったために支持撤回と張勲非難とを余儀なくされ、許自身の声望は更に失われている[16]。
黒竜江省の内乱・割拠状況を収拾するために、7月上旬、奉天督軍・張作霖は配下の第27師第54旅旅長・孫烈臣を省城に派遣する。孫は許蘭洲や英順らと会談し、双方から張の調停を受け入れるとの回答を得た。同月中に張は北京政府中央へ照会し、張配下である鮑貴卿が後任の黒竜江省督軍兼省長として任命されている。許は黒竜江省督軍兼省長の正式任命を受けることなく、失脚することになった[17]。
援陝軍司令
これ以降の許蘭洲は黒竜江省を離れ、張作霖率いる奉天派の一員として活動することになる。失脚の翌月(1917年8月)、許は北京政府中央の将軍府参軍に転じたが[9]、実際には張配下の東路剿匪総司令として奉天省西豊県に駐屯している[18]。なお、畢桂芳との抗争で多くの部下に離反されたものの、李景林らは許の下に残留しており、一定の軍事力を許は保持していた。
1918年(民国7年)、許蘭洲は張作霖から援陝軍司令[注 7]に任命される[18]。当時の陝西省は安徽派と目される督軍・陳樹藩が統治していたが、胡景翼らが率いる南方派の陝西靖国軍との省内内戦が開始されていた。張・許の名分は当然ながら陳の支援にあったが、それに加えて奉天派の勢力・影響を陝西省に及ぼすことも目的としていた。また許個人については、陝西督軍の地位をめぐる野心まで有していたとされる[18]。靖国軍との戦いが進展する一方で、張・許と陳との関係は次第に悪化していった。
1920年(民国9年)5月2日、許蘭洲軍は陝西省長・劉鎮華率いる「鎮嵩軍」と鄠県で衝突する。劉は陳樹藩の要請を受けて河南省から陝西入りしていたため、すなわち主敵たる靖国軍が健在の中で、陳を支援する省外軍隊同士が内輪揉めしたことになる。この衝突で奉天派に見切りをつけた陳は、使者を張作霖の下に派遣して許の撤兵を強く要求した[19]。軍事的にも政治的にも前途を見通せなくなった張・許は、やむなく陝西省から撤退したのである[18]。
奉直戦争での動向
1920年(民国9年)12月、許蘭洲は東三省巡閲使署総参謀長に任命されたが[9]、まもなく辞任して同署高等顧問という閑職に移った。しかし翌1921年(民国10年)11月、吉江(吉黒)両省剿匪総司令に任命され、反張作霖の武装勢力掃討の現場に返り咲いている[18]。
1922年(民国11年)4月、第一次奉直戦争が勃発すると、許蘭洲は東路軍で騎兵集団司令をつとめ、直隷軍と交戦した。許の部隊は比較的善戦したものの、張景恵率いる西路軍が脆くも崩壊したため撤退を余儀なくされた。翌1923年(民国12年)、張作霖は奉天軍の精鋭化を図るために東三省陸軍整理処を立ち上げた。許も顧問ながら同処に参与している[20]。
1924年(民国13年)9月、江浙戦争が勃発すると、許蘭洲は鎮威軍第6軍軍長に任命され、直隷軍と交戦した(第二次奉直戦争)。陸軍整理処による軍事改革の効果もあり、鎮威軍全体の能力は向上されていたため、許率いる第6軍も軍功をあげている[21]。1927年(民国16年)、安国軍大元帥府侍従武官長となり[2][3]、同年7月には陸軍上将銜を授与された[9]。
晩年
1928年(民国17年)6月の張作霖暗殺後に許蘭洲は引退し、天津に移住する。その後は北京紅十字会会長、河北省国術館館長等をつとめた[2][3]。
人物像
当時の世評では幼いころから武術に長じる一方で、文人や学問、法律を軽んじる傾向があったとされる。後年の楊喜祥に至っては、許蘭洲は「無謀な性格で、後先を考えずに行動する」、とまで評している。1901年11月、許は栄禄邸で宦官と乱闘し数人を負傷させたため、事件を重く見た袁世凱に処罰されそうになる。この時は栄禄が許を擁護したため、厳重注意のみで済んだ。許は袁の営務処に移され営官となるが、今度は営務処の監査に来た提調に暴行を加えてしまう。袁の命を受けた営務処総弁・王治馨は、棍棒百叩きの刑と軍学再履修とを許に下した[6]。
無謀な性格とされる一方で、許蘭洲は政治的嗅覚につき敏感な面があった。特に袁世凱が皇帝即位を目論み、朱慶瀾がこれを支持した際には、上述のとおり個人的野心があったにしても、その逆の立場を素早く決断している点は注目に値する。
張作霖とは清末の東三省総督・徐世昌の下で共に統領官だったこともあり、それ以降の両者の関係は良好であった[22]。1917年(民国6年)に黒竜江省の統治権を横から張に攫われた形になったものの、以後の許は奉天派の一員として張を裏切ることなく活動している。許が第二次奉直戦争まで前線指揮官であった点を見ても、張が比較的高い信頼を許に寄せていたことがうかがえる。