原町 (静岡県)

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廃止日 1968年4月1日
廃止理由 編入合併
原町沼津市
現在の自治体 沼津市
日本の旗 日本
はらまち
原町
廃止日 1968年4月1日
廃止理由 編入合併
原町沼津市
現在の自治体 沼津市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 静岡県
駿東郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 30.58 km2.
総人口 16,364
国勢調査1965年
隣接自治体 沼津市富士市
原町役場
所在地 静岡県駿東郡原町大字原
座標 北緯35度07分45秒 東経138度47分38秒 / 北緯35.12919度 東経138.79378度 / 35.12919; 138.79378 (原町)座標: 北緯35度07分45秒 東経138度47分38秒 / 北緯35.12919度 東経138.79378度 / 35.12919; 138.79378 (原町)

東部地域の町村制施行時の町村。3が原町。(4.浮島村)
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原町(はらまち)は、かつて存在した静岡県駿東郡の町である。江戸時代には東海道五十三次の一つ、原宿が設置されていた。

町域には古くから人の営みがあり、5世紀後半に築造されたとされる神明塚古墳前方後円墳)が残る。

源義経木曾義仲討伐のため上洛する際、浮島ヶ原で大規模な馬揃えを行ったことが知られている。また、源頼朝の弟である阿野全成が拝領した阿野荘は現在の沼津市原一帯にあたり、原宿の本陣を代々営んだ原宿渡辺家は全成の子孫とされる。

戦国時代には、町域北部の愛鷹山南麓に興国寺城が築かれた。北条早雲(伊勢新九郎盛時)が今川氏親を助けた功により長享2年(1488年)頃に城主となり、戦国大名として旗揚げした城として知られる。その後、今川氏武田氏北条氏の間で争奪が繰り返され、慶長12年(1607年)に廃城となった。城跡は国の史跡に指定されている。

江戸時代には東海道五十三次の13番目の宿場である原宿が置かれた。宿場は江戸方から大塚町・東町・西町で構成され、本陣1軒、脇本陣1軒を有していた。天保12年(1841年)時点の家数は387軒、人口は1777人であった。隣の沼津宿に近く小規模な宿場であったため、休息地としての利用が中心であったとされる。歌川広重の浮世絵では、原宿から望む富士山が最も雄大に描かれている。

原宿は臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴の生地としても知られる。貞享2年(1685年)に原宿の商家・長沢家に生まれた白隠は、15歳で松蔭寺にて得度し、享保2年(1717年)に同寺の住職となった。以後約50年にわたり、全国から集まった修行僧を指導するとともに、禅画や仮名法語を通じて広く民衆に禅の教えを説いた。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と称えられ、現在も松蔭寺を中心とする一帯は「白隠の里」として整備されている。

また、江戸時代後期には植松家によって帯笑園が造営され、参勤交代の大名や公家、文人墨客が立ち寄る名勝となった。帯笑園は国の登録記念物に登録されている。

地理

町域は北の愛鷹山山麓から南の駿河湾沿岸にかけて広がる。南部の海岸沿いには千本松原の松林が続き、その内陸側には浮島沼(浮島ヶ原)と呼ばれる低湿地帯が広がっていた。浮島沼は、愛鷹山から流れる河川が海岸の砂丘にせき止められて形成されたもので、海面との標高差が小さく、大雨や高潮のたびに冠水した。江戸時代を通じて新田開発は困難であり、昭和30年代まで腰や胸まで浸かって田植えを行う湿田農耕が続けられた。ナンバやタブネといった独自の農具も発達している。地盤が脆弱であることから、東海道新幹線東名高速道路は浮島沼を避け、愛鷹山の裾野を通るルートで建設された。昭和30年(1955年)に浮島村との合併により、この浮島沼一帯も原町の町域に加わった。

愛鷹山の山麓は江戸幕府直轄の馬の放牧場「愛鷹牧」として利用されていた。毎年秋の農閑期に野馬の捕獲が行われ、良馬は江戸の厩へ送られた。牧士には原宿の問屋・名主・本陣など地元の有力者が任命された。

町域南部は駿河湾に面し、富士山の眺望に優れた土地として知られる。歌川広重が「東海道五十三次・原」で描いた朝の富士は、原宿付近からの眺めに基づくものとされる。

産業

浮島ヶ原一帯では古くから稲作が行われてきたが、低湿地のため農耕条件は厳しく、独特の湿田農業が長く続いた。町域には富士山の伏流水が豊富に湧出しており、この湧水は酒造や食品製造に利用されている。旧東海道沿いにある高嶋酒造文化元年(1804年)に網元であった先代が創業した酒蔵で、地下150メートルから汲み上げる富士山の湧水を仕込み水に用いている。明治17年(1884年)に山岡鉄舟が銘柄「白隠正宗」と命名した。

戦後は沼津市中心部に比べ地価が安かったことから宅地化が急速に進み、農地や山林は住宅地や工業用地に転換されていった。

教育

明治6年(1873年)、一本松・助兵衛・植田の三新田に「初学舎」が設立されたのが原町における近代教育の始まりである。翌明治7年には原宿に「又新舎」、明治8年には大塚に「始進舎」が設けられた。これらはその後の統廃合を経て、明治20年(1887年)に「原尋常小学校」となった。昭和22年(1947年)には原町立原中学校が創立され、当初は原小学校の敷地を借用して開校した。

名所・旧跡

来歴

交通

関連項目

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