愛鷹牧
From Wikipedia, the free encyclopedia
| よみ | あしたかのまき |
|---|---|
| 所在地 | 駿河国駿東郡(現・静岡県沼津市・駿東郡長泉町) |
| 種別 | 江戸幕府直轄牧 |
| 開設 | 寛政9年(1797年) |
| 廃止 | 明治初年(1868年頃) |
| 構成 | 尾上牧・元野牧・霞野牧・尾上新牧 |
| 管轄 | 若年寄支配 → 御小納戸頭取(野馬掛) |
愛鷹牧(あしたかのまき)は、駿河国の愛鷹山南麓に所在した馬牧(放牧場)である。古代には官牧として機能し、中世に荘園化して組織的な牧の機能を失ったのち、江戸時代後期の寛政9年(1797年)に江戸幕府の直轄牧として再び開設された。現在の静岡県沼津市西野・宮本・足高、駿東郡長泉町東野の一帯に位置し、尾上牧(おのうえまき)・元野牧(もとのまき)・霞野牧(かすみのまき)の3牧で構成され、のちに尾上新牧(おのうえしんまき)が加えられて4牧体制となった。
古代の駿河国には、『延喜式』兵部省に記載された岡野馬牧(おかののうままき)をはじめとする官牧が置かれていたと考えられている[1]。愛鷹山の南麓もこうした牧の一つとして機能していたとみられる。
しかし古代末期から中世にかけて律令制が衰退すると、官牧は次第に私牧化・荘園化していった。岡野馬牧も私領に転じ、大岡庄(おおおかのしょう)と呼ばれる荘園となり、律令制下の牧としての施設は失われた[2]。建久4年(1193年)に源頼朝が富士の巻狩りを挙行した際、愛鷹明神に奉納するための馬99頭を集め、現在の御殿場市駒門(こまかど)の地に繋いだとの伝承がある[3]。
牧の施設が失われた後も愛鷹山には野生の馬が生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神(現・桃沢神社)の神主興津家(おきつけ)がこれを神馬として保護した。興津家は50代以上にわたり神主を世襲してきた社家で、令和8年(2026年)現在は第51代当主が祭祀を務めている[4]。今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受けて近世に至ったとされ、戦国期の武田家朱印状(元亀3年)が桃沢神社領の安堵を示すなど、興津家の管理権を間接的に裏づける史料が存在する[5]。
戦国期における軍馬資源と街道交通
愛鷹山の馬は戦国大名にとって軍馬確保の重要な資源であり、近年の研究では、愛鷹山麓が軍事拠点としても機能していた可能性が指摘されている[2]。天文6年(1537年)の河東の乱で北条氏綱がいち早く駿河吉原まで占拠したことは、愛鷹の馬の確保と関連づける説がある[6]。永禄12年(1569年)の駿河動乱において後北条氏が蒲原城や興国寺城の確保に固執した背景にも、愛鷹山の軍馬資源への関心があったとする見方がある。
愛鷹山麓の東海道沿いには、戦国期から街道交通を担った有力者が根づいていた。静岡県立中央図書館所蔵の「駿河国駿東郡原宿渡辺家文書」には、戦国期の人馬継立史料としては最古級の天文17年(1548年)の今川義元朱印状写や天正6年(1578年)の武田氏朱印状写が収録されており、渡辺・上松・桜井・斎藤といった有力者の名が記載されている[7]。渡辺家は近世に愛鷹牧の牧士にも任命されており、戦国期の継立機能が軍馬確保の基盤であった可能性がある。
天正18年(1590年)に徳川家康が関東に移封されると、駿河国は豊臣系大名を経て幕府の支配下に入ったが、愛鷹山の野馬に対して幕府が組織的な牧を設ける動きはなく、引き続き興津家のもとで愛鷹明神の神馬として保護される状態が続いた。幕府が本格的に関与するのは享保期以降のことになる。
江戸幕府による牧の開設
享保期の試み
江戸幕府が愛鷹山の野馬に最初に注目したのは、8代将軍徳川吉宗の享保期(1716年 - 1736年)のことであった。この時期、幕府は房総(下総国)において小金牧や佐倉牧の整備・新設を積極的に進めており、駿河国の愛鷹山にも牧を設置する構想が浮上した[8]。
しかし、愛鷹明神の神主である興津氏や周辺の農民からの強い反対にあい、享保期の牧設置は実現しなかった[8]。
寛政期の開設
享保期の挫折からおよそ60年後、寛政8年(1796年)に転機が訪れた。この年、岩本石見守正倫(いわもと いわみのかみ まさとも)が野馬掛(のまがかり、御小納戸頭取が兼務する幕府牧の最高管理職)に就任した[2]。
岩本正倫は自ら愛鷹山に乗り込み、神罰を恐れて反対する興津氏や農民の主張を退けて、牧の開設を断行した。翌寛政9年(1797年)、元野牧・尾上牧・霞野牧の3牧が正式に開設された[2]。愛鷹牧の新設は、岩本正倫による幕府牧制度全体の組織改革の一環として実現したものであり、下総国の小金牧・佐倉牧、安房国の嶺岡牧とならぶ幕府直轄牧の一つとなった[9]。
牧の構成
愛鷹牧は愛鷹山の南麓に東西に展開し、以下の4つの牧で構成された。東から順に尾上牧・元野牧・霞野牧が並び、のちに尾上新牧が加わった。
尾上牧(おのうえまき)
4牧のうち最も東に位置する牧。現在の沼津市足高尾上付近にあたる。寛政9年(1797年)に開設された。馬数の増加に伴い、のちに尾上新牧が分設されるもととなった。
元野牧(もとのまき)
中央に位置する牧で、駿東郡柳沢村上に捕込(とっこめ、馬の捕獲施設)が設けられた。東は小尾振沢(西川)で尾上牧と、西は大沢川で霞野牧と接していた[10]。
捕込の南方には、鳥谷村が結切(詰切とも、馬が逃走しないよう封鎖する土手)を担当したという土手の一部が残存している。また捕込の北方からは東に向かって追込土手が延々と続いており、4牧の中で最も遺構の残存状況が良好である[10]。捕込の構造は改修された形跡があり、当初は溜込・捕込・払込が横一列に並ぶ形であったものが、後に溜込・捕込が横に並び、捕込の下に払込が付くという形に変更されたとみられている。
霞野牧(かすみのまき)
4牧のうち最も西に位置する牧。須津川と大沢川の間の高地にあったとされる。寛政9年(1797年)に開設。
尾上新牧(おのうえしんまき)
弘化3年(1846年)、尾上牧における馬数の増加に対応するために新設された牧である[8]。愛鷹牧4牧のうち唯一、江戸時代後期に追加された牧であり、開設当初の3牧(尾上・元野・霞野)とは区別される。
管理体制
野馬奉行と野馬掛
幕府牧の支配体制は、8代将軍吉宗の享保期に整備された。若年寄の支配のもとに野馬奉行(のまぶぎょう)が置かれ、小金町(現・松戸市)に役宅を構える綿貫氏がこれを世襲した[2]。
その後、寛政期に岩本石見守正倫によって組織改革が行われ、野馬奉行は御小納戸頭取(野馬掛)の配下に再編された。愛鷹牧の開設は、まさにこの改革の一環として実現したものである[2]。
牧士
牧士(もくし)とは、幕府直轄の牧場において維持管理を担った役職の一つである。愛鷹牧では、文政年間(1818年 - 1830年)頃から定員が12名とされた[11]。
牧士に選ばれたのは、宿村の問屋・年寄・本陣・名主などを務めた地域の有力者であった。牧士には苗字帯刀、麻裃の着用、乗馬鉄砲などの武士に準じた身分的特権が認められ、幕府から給金が支給された[11]。牧士見習も同様に給金の対象であった。
たとえば、原宿の渡辺家は本陣を営む一方で牧士を兼ね、戦国期から馬と関わりの深い家柄であった(前述)。また三島宿の世古本陣の当主・六太夫清道(1815年 - 1891年)は、文久2年(1862年)に親類の広瀬清三郎の退役に伴い愛鷹牧の牧士に就任している。野馬方の役人が世古本陣を常宿としていた縁がこの就任につながったとされる[11]。
野馬方と捕馬
野馬方(のまかた)は、野馬を牧場から追い出して城(沼津城)に送る役を担い、平時には野馬の飼育を担当した役人である[11]。
毎年1回、9月から11月頃にかけての農閑期に、牧場の最大行事である捕馬(馬の捕獲)が行われた。追込土手を利用して馬を捕込に追い込み、幕府御用として選別・献上する一連の行事は一種の祭事的性格も持ち、捕獲を手伝う勢子(せこ)や見物人で賑わった[11]。