日岐氏
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出自~戦国時代頃
享徳年間(1452-1455)頃、日岐郷の領主は藤原(丸山)宣光という人物だった[1]。その後、宣光の養子として安曇郡国衆仁科明盛の子・盛慶が入り、仁科姓の日岐丸山氏の祖となったとされる。
伝承や系図類では、仁科盛家の子・盛生が日岐郷に入り、盛生流が断絶したのち、新たに仁科盛忠弟・盛光が日岐に入り、さらに盛光流も途絶えて盛慶が入ったとされている[2]。
戦国期が進むと、日岐大城を要害、万平館を居館とした。日岐丸山氏は戦国時代、その一族である丸山肥後守らが安曇郡南部に移り、府中小笠原氏・平瀬氏の寄子となっている(後述)。
天文19年(1550年)、武田晴信が筑摩郡に侵攻し、小笠原氏を没落させる。このとき、仁科盛康は武田氏に従属し、日岐氏もこれに従ったと思われる。
永禄10年(1567年)には日岐盛次が仁科衆として、堀金盛広・古厩盛隆らと共に生島足島神社に武田氏への忠誠を誓う起請文を納めた[3]。
日岐盛直・盛武の活動
天正10年(1582年)、武田氏は織田氏によって滅亡し、間もなく織田信長も斃れて、信濃・甲斐が動乱に陥った。
同年には武田氏に筑摩郡府中を追放されていた小笠原長時の子・貞慶が故地への復帰を果たす。日岐の地は筑摩郡から川中島地域に抜ける重要な交通路であり、また当時の当主・日岐盛直は上杉景勝に接近していたため、貞慶は日岐氏攻めを開始する(日岐城の戦い)。
8月に始まった戦いは激戦となり、一か月近くにも及んだ。その間、盛直およびそれに従う耳塚元直に対して、上杉景勝は荻原・細野・松川・池田・滝沢などを宛がい抗戦を後押しするが[4]、9月になって日岐城は落城。しかし、盛直・盛武はその後も日岐大城などを保って小笠原氏に抵抗した。
その後、貞慶は盛武の妹南姫を以て、盛武を帰属させようと試みたが、南姫は塔原幸貞や古厩盛勝が貞慶によって殺害されたことを挙げて帰属の説得を拒否したとされ、これに対し貞慶は盛武を粗略に扱わないとする誓紙を作成した[5]。
盛武は小笠原氏に帰順すると同時に兵を貸借して水内郡芋川城を攻めたとされ、天正11年(1583年)、兄・盛直の旧跡二百貫文余りを継承し、安曇郡内での加増も受けた[6]。以後は小笠原家臣となり、古河藩への転封にも付き従った。
一方、同年1月には盛直が潮神明宮に神領を寄進し、宮下氏に神事を務めさせる旨の書状を出しており、8月23日には日岐在城衆の謀反によって日岐大城から退去し上杉景勝を頼った[7](同月7日には日岐盛武が貞慶から起請文を提出されたうえで、小笠原に帰属していることから、盛武・盛直間での内部争いがあったと考えられる)。
天正12年(1584年)には盛直が松田民部助に養子入りし、松田織部佐盛直を称して、更科八幡宮領及び松田氏領を与えられ稲荷山城に在番した[8]。
また、盛直の息子仁科孫三郎は景勝より仁科家惣領職相続を認められ、日岐丸山氏は仁科盛信以降断絶していた仁科氏宗家を継ぐこととなった。その後、盛直らは上杉氏の転封に付き従って、江戸時代には米沢藩士となった。
江戸時代
江戸期には、日岐盛直系は上杉家に仕え、盛武系は小笠原家に仕え信濃を離れたとされるが、その一方で信濃国内にも日岐氏が残ったとみられる。
寛永13年(1636年)、日岐盛貞という人物が仁科神明宮遷宮にともなって、神明宮に銅製鏡を奉納している。このように、江戸期にも安曇・筑摩に日岐氏が存在した形跡がある。