古河府

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古河府(こがふ)は、室町時代戦国時代古河公方の政治権力を担った組織である。享徳の乱により関東における戦国時代が始まったときに、鎌倉府の遺産を継承して成立した。

享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方足利成氏鎌倉から下総古河へ根拠地を移し、古河公方と呼ばれることになった。このとき多くの奉公衆や高僧が、成氏に従って鎌倉から移住する。さらに、医師や馬具作り、台所管理や武家故実に通じた職能人も古河に集まって来た。日本中世史を専門とする市村高男は、「鎌倉公方の権威と権力を継承した公方成氏の本拠」である古河を「経済や医療・技術・宗教・文化等の面でも東国の最先進地に成長した」と評価し、「鎌倉府の遺産を継承した政治・権力・組織」を古河府と呼んだ[1]。現在、古河府という表現は複数の研究者によって用いられている[2]

古河府の歴史

第5代鎌倉公方足利成氏は、享徳3年(1454年)12月に始まった享徳の乱で、関東管領上杉氏および室町幕府と対立。享徳4年(1455年)3月、遠征中に下総古河に入り、6月に幕府軍の攻撃により鎌倉を失うと根拠地を古河へ移した。以後、古河公方と呼ばれ、鎌倉公方の政治・権力を担った鎌倉府も古河に移転した。主な御所は古河城。城内には「御奏者所」と呼ばれた公方近習の詰所があったことが分かっており(『松陰私語』)、古河府の政庁も古河城内にあったと考えられる。

文明14年11月(1483年1月)に成氏は幕府と和睦し、享徳の乱が終結したが、その後も引き続き古河を御所とする。永正年間(1504-1520年)には、第2代足利政氏が関東管領・上杉顕定との連携を強め、鎌倉府以来の「公方-管領体制」を再構築しようとする。この政氏と第3代足利高基との抗争は古河府を分裂させ、永正14年(1517年)に成立した小弓公方足利義明との対立へと発展した。

天文7年(1538年)、第4代足利晴氏北条氏綱の力を借り、国府台合戦で小弓公方を討ち滅ぼしたものの、後北条氏が古河府内に浸透する契機となる。後北条氏と反対勢力の間で古河公方の争奪戦が激しかった天文から永禄年間にかけては、後北条氏側の意向によって古河公方が古河から連れ出されたため、古河府の組織も御所と共に葛西城関宿城に移されていたと考えられている。後北条氏は関東支配の正当化のため、古河公方の権威を必要としたが、第5代足利義氏のときに関東支配が確定的になると、古河公方権力を解体してその支配体制に取り込み、天正10年(1582年)閏12月に義氏が死去(三島暦による・京暦では天正11年)したことで、名実ともに古河公方は消滅した。

なお、義氏の娘(氏姫)を中心として古河公方家自体は義氏死後も存続した。そして、天正18年(1590年)に後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉によって古河公方家と小弓公方家の統合、すなわち氏姫と足利国朝との婚姻(国朝死後はその弟の頼氏と再婚)がなされて喜連川家が成立すると、両家の家臣団も統合再編されて江戸時代には喜連川藩の家臣団となり、幕末まで続いた。

古河府の構造

脚注

参考文献

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