古瀬戸内海
日本列島に存在した古海洋
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第一瀬戸内海
西南日本の中央部を縦断し、現在の瀬戸内海地域を概ね東西に延長した長野県南部から九州中部地域にわたる地質区を「瀬戸内区」というが、細長い低地であったその場所に中新世の前期から中期にかけて浸入した海が第一瀬戸内海(だいいちせとないかい)であり、その範囲に点在する、主として海成層の中新統が第一瀬戸内累層群(だいいちせとうちるいそうぐん)である[5][6][7]。
代表的な地層は岐阜の瑞浪層群や津山盆地の勝田層群などである。かつて含まれているとされた神戸層群は、古第三紀始新統から漸新統であることが判明し除外されている[7]。
地史
中新世

約2200万年前から約2000万年前にかけて、現在の岐阜県可児市付近で火山性陸成堆積盆が形成され、湖沼域が広がった。この堆積盆地が最初期の東部瀬戸内区である。約2000万年前からは局地的に非火山性の陸成堆積盆の形成も始まり、三重県鈴鹿市付近でも堆積盆が出現した。これらの地域で海進が起きたのは約1800万年前(中新世ランギアン)のことであった[3]。約1650万年前までに第一瀬戸内海は急速に拡大しており[3]、現在の伊勢湾付近に海が広がり、周囲に内陸湖が形成された[4]。この急拡大には中央構造線の関与があった可能性がある。なお、この時期には形成されたばかりの西部瀬戸内区(現在の瀬戸内海沿岸など)に第一瀬戸内海はまだ広がっておらず、そこには淡水環境が広がっていた[3]。
約1650万年前から約1550万年前までの約100万年間は西黒沢海進の前期の時期にあたるが、瀬戸内区は一様な海進を遂げたわけではない[3]。この時代に初めて西部瀬戸内区にも海が拡大し[3]、第一瀬戸内海は東西方向に約500キロメートル、南北方向に約80キロメートルに亘って広がる、現在の瀬戸内海よりも広大な海になった[4]。急激な二度目の海進では京都府南部の宇治田原町付近まで海が広がった[4]。やがて伊勢湾まで海退した後、最大規模であった三度目の海進が発生。伊勢湾は水深200メートルの海へ変化し、現在の島根県は水没。紀伊水道を介して太平洋、島根県中央部を介して日本海と繋がり、西南日本は海により分断されて多島海となった[4]。
この大規模な海進の後に海退が起き、第一瀬戸内海は離水した。これは海水準上昇を上回るほどの隆起が西南日本で起きていたことを示唆している。約1500万年前には西南日本の広域応力場が南北伸長場から南北圧縮場に変化しており、またその細かいプロセスに異論はあれど日本海も同時期に急拡大を遂げている。このことから、日本海の拡大と西黒沢海進により西南日本で海進が起こった後、応力場の変化に伴って地形の隆起が生じて海退に遷移したと推測されている[3]。
後期中新世ごろから第一瀬戸内海は陸化が進行した[2]、離水(第一瀬戸内海の消失)直後に東方で設楽や室生火山群の短期間の火山活動が起き、その終期に西方で二上山や石鎚山などの火山が長期的な噴火活動を開始した。火山活動は約1100万年前まで継続。活動が終息した後も、瀬戸内区では平坦な陸地が長く形成されていた[3]。
生物
第一瀬戸内海において、西黒沢海進期にはヒルギシジミ属やMiogypsina属(有孔虫)やOperculina属(ヒルガオ科)といった熱帯 - 亜熱帯動植物群集が生息しており、海進がピークに達していた時期には外洋性のプランクトンも生息していた[3]。ビカリアも第一瀬戸内海に生息していた。また、脊椎動物化石も産出している。可児盆地と瑞浪盆地からは、前者では陸棲哺乳類で構成される平牧動物群、後者では海棲哺乳類で構成される戸狩動物群という化石群集が産出しており、互いに同時代の動物相を代表している[8]。
- 平牧動物群
- 属レベルで同定されているものでは、キロテリウム、ゴンフォテリウム、アンキテリウム、パレオタピルス、アンフィトラグルスが産出する。小型哺乳類ではリスとネズミの仲間がおり、こういった生態系の上位に位置していた大型肉食動物の断片的な化石も確認されている。爬虫類ではワニやスッポンなども産出している。陸上哺乳類相はユーラシア大陸の動物群との共通性が高い。またサイ・ゾウ・ワニ・カメといった水辺を好む生物、そしてバクという森林生活者が発見されているため、当時の環境が温暖かつ水に富む森林であったことが示唆される[8]。
- 戸狩動物群
- デスモスチルス、ユーリノデルフィス、派生的なハクジラおよびヒゲクジラ、鰭脚類が産出している。北方系の動物から構成され、比較的寒冷な海域であったことが示唆されている。温暖な海域を示す海牛類は産出していないが、これは海水温よりもデスモスチルスに代表される束柱目との生態的地位の重複が大きく寄与していると岡崎美彦は判断している[8]。
- ただし、瑞浪盆地の中新世の魚類については熱帯域に生息するウシザワラやカマスザワラが産出しており、こちらからは温暖な海域であったことが示唆されている。沿岸部に生育していた植物相については、約2000万 - 1800万年前まで主に落葉広葉樹が占め、それから約1600万年前までは落葉広葉樹と常緑広葉樹の混交林が卓越した。約1500万年前には常緑広葉樹が優占しており、徐々に温暖化が進んでいたことが示唆される[9]。
第二瀬戸内海
一旦陸化した瀬戸内区に沿って、鮮新世から更新世にかけて局所的な堆積盆地が帯状に形成され、東海層群、古琵琶湖層群、大阪層群などがそれぞれ堆積した[5]。これらを第二瀬戸内累層群(だいにせとうちるいそうぐん)といい、主に河湖成層であり、海成層が見られるのは大阪堆積盆地や九州などであるが[10]、海進により形成された内湾・内海だけでなく、堆積盆地帯全体を第二瀬戸内海(だいにせとないかい)と呼ぶこともある[3]。
地史

鮮新世
約700万年前[11]より東部瀬戸内区で非火山性の陸成堆積盆が、伊勢湾周辺の東海堆積盆の形成から始まり、遅れて約450万年前から伊賀地域での古琵琶湖堆積盆の形成が始まった[12][13]。
その西では、大阪堆積盆の形成が約350万年前に和泉山脈北麓と淡路島から始まり[14][15]、その後300万年前頃には堆積域を神戸沿岸まで広げた[14]。一方、東海堆積盆および古琵琶湖堆積盆は北上していくこととなり、約300万年前から、東海堆積盆は堆積の中心が伊勢湾西部と濃尾平野に移り、古琵琶湖堆積盆は堆積の中心が甲賀地域に移って厚い粘土層を堆積させる湖が成立している[14]。 こうした沈降盆地の形成や移動は約600万年前から始まるフィリピン海プレートの沈み込みの進行と関係していることが示唆される[15][16]。
東海堆積盆・古琵琶湖堆積盆・大阪堆積盆の3盆地は河川で接続され、東海堆積盆は現在の関ヶ原を通る河川で古琵琶湖堆積盆とつながっていたものとみられる[12]。古琵琶湖堆積盆については、現在の琵琶湖の出口辺りから信楽高原を通って伊賀地域に至る河川が、約250万年前に奈良盆地側に抜ける流路に変わったと考えられている[14]。
これら東海堆積盆・古琵琶湖堆積盆・大阪堆積盆に、鮮新世から更新世にかけて堆積した地層が、東海層群・古琵琶湖層群・大阪層群である。
更新世
鮮新世からの大阪堆積盆の沈降は続き、約250-200万年前には大阪盆地(大阪湾・大阪平野・河内平野)、奈良盆地、京都盆地、播磨盆地(播磨平野・播磨湾)と淡路島を含むような広範囲な堆積盆が形成される[14]。
東海堆積盆は、約200万年前以降、堆積の中心が養老山地を境に東側(濃尾平野)と西側の盆地に分かたれ、古琵琶湖堆積盆は 約250-200万年前には堆積の中心が現在の琵琶湖の南東辺りに大きく移動している[14]。
約130 - 120万年前[注釈 1]には紀伊水道を介して太平洋から大阪堆積盆に海が進入し、更新世に始まる氷期と間氷期のサイクルに伴う海水準変動により、以降間氷期には海進により海成の砂や粘土が堆積していった。これが第二瀬戸内海である[18]。 約120万年前の海進では、大阪平野と山城盆地(広義の京都盆地の南半)、奈良盆地を完全に水没させるほどの範囲まで海水が進入した。
第二瀬戸内海は計10回以上[注釈 2]発生していた海進・海退のサイクルに伴って姿を何度も変えていた[18]。 こうした海の範囲は、海成粘土層の分布により推定することが可能であり、堆積盆のうち海成粘土層が存在するところまで、そのとき海があったといえるが[19][注釈 3]、 その規模はかつての第一瀬戸内海に比べると遥かに限られたものであった[2]。
さらに約100万年前以降、東西方向の圧縮により南北方向の断層の活動が活動的になると、東海堆積盆・古琵琶湖堆積盆の水域は分たれ、古琵琶湖堆積盆・大阪堆積盆の間は先行河川である瀬田川・宇治川によりつながるのみとなった[12]。 大阪堆積盆では、播磨盆地・淡路島・奈良盆地が沈降域から隆起域に急速に転じ、堆積盆は大阪湾・大阪平野から京都盆地を結ぶ領域に縮小した。 琵琶湖周辺では、約100万年前以降、堆積場が現在の琵琶湖および西岸の丘陵地に限定されることになる[14]。
こうした土地の隆起・沈降や氷期・間氷期サイクルに伴う海水準変動に際し、中期更新世から平野や盆地にある段丘の形成が始まった。 近畿地方の平野や盆地内にある段丘は、約40万年から20数万年ごろを境に離水し、発達し始めたものと考えられ、大阪平野周辺の台地・丘陵では、大阪層群が離水して段丘化する時期は約40-30万年前よりやや新しい時期とされる[14]。 また、琵琶湖西岸では、琵琶湖西岸断層帯の断層運動により約40万年前に離水し、以降琵琶湖湖底に厚い粘土層が出現し始めることから、断層運動の開始により琵琶湖が現在の位置が固定されたと考えられる[14]。
更新世末となる最終氷期(ウルム氷期)では、莫大な量の水分が氷河・氷床として固定されたため極大期には海水面が100メートル以上低下し、第二瀬戸内海も陸地へ変化した[20][21][22]。
完新世
最終氷期後、完新世となると海水準は上昇し、現在の瀬戸内海が形成されることになり、約7000 - 6000年前の縄文海進の時期には、大阪では上町台地の東側にまで海が進入して内湾が形成された(河内湾)[21]。その後、内湾は河川の堆積作用により河内湖となり、現在は大阪平野の一部(河内平野)となっている。
瀬戸内海域
現在の瀬戸内海付近では、大阪層群を溜める大阪堆積盆の形成(約300万年前)と同時期かそれ以降に、陸成の堆積盆の形成が始まり、鮮新世末から更新世初頭にかけて、その形態が明瞭になったと考えられる[23]。当初は東西に延びた堆積盆地が広がっていたが、中央構造線の横ずれ断層運動に伴い、北東・南西方向に雁行配列した隆起帯と沈降帯が生じることとなり、これが島が並ぶ「瀬戸」と海面が広い「灘」が東西に連続する現在の瀬戸内海の地形のもとになっている[23]。また、当域に海水が初めて進入した時期は明らかになっていないが、大阪堆積盆に海水が進入した約130万年前とほぼ同時期かそれ以降とされる[24]。現在の瀬戸内海の海域については、最終氷期に陸化したのちに、海進により形成されたものである[25]。
生物
第二瀬戸内海に生息していた動物としてマチカネワニ(トヨタマヒメイア・マチカネンシス)が挙げられる。また、氷河期に形成された海岸段丘からナウマンゾウ化石が発見されている[4]。