古田重勝
日本の侍 (1560-1606)
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生涯
永禄3年(1560年)、古田重則の長男として美濃国山口城に生まれる(『美濃国諸旧記』)。
天正7年(1579年)8月に父・重則が三木城攻めで戦死したため家督を継ぎ[1]、天正13年(1585年)7月、従五位下、兵部少輔に叙任された[1]。
翌天正14年(1586年)には方広寺大仏殿(京の大仏)の作事奉行を務めた[1]。
翌天正15年(1587年)の九州征伐に従軍、天正18年(1590年)の小田原の役では150人(または120人)を率いた[2]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では200人を率いて朝鮮に渡海し[3]、文禄3年(1594年)の春には伏見城の普請を分担、この当時近江国日野城主として3万4,000石を領していたが、翌文禄4年(1595年)に伊勢国松坂城主となって3万5,000石を領した[1]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに先んじて上杉景勝討伐のため会津に向かうが、西軍挙兵の報を受け急ぎ帰国した。木食応其より西軍参加を説かれるがこれを拒否し、松坂城に篭り鍋島勝茂らと対峙するとともに安濃津城に篭城した富田信高、分部光嘉に援兵50人を送るなどした。『日本戦史』図では重勝が関ヶ原合戦に参戦したように描かれているが、重勝は松坂城に籠城していることが明らかであることから、関ヶ原に参戦したのは古田重然の誤りであるとされている[4]。戦後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され伊勢松坂5万5,000石の大名となった。その後、江戸城の石垣普請を命ぜられるなどしたが、慶長11年(1606年)、江戸にて没した。
慶長8年(1603年)1月13日、重勝は織部(重然)の茶会に正客として招かれている(「旁求茶会記」)。相客は稲葉蔵人(道通)、暮松越後守であった。