吉賀頼貞
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生涯
石見国の国人・吉見氏の庶流である吉賀氏[2]に生まれ、吉見正頼・広頼父子に仕える。
天文22年(1553年)10月12日、波多野滋信と共に長門国阿武郡嘉年の勝山城に籠城する下瀬頼定が出撃し、長門国阿武郡高佐原において大内家臣・町野隆風の軍と衝突し、矢合戦にて撃退した[4]。この時の合戦には頼貞も参加していたが、同じく従軍した頼貞の子の吉賀弥六が戦死し、11月17日に吉見正頼が頼貞に送った書状で弥六の戦死について触れられている[3]。
永禄4年(1561年)の門司城の戦いに従軍。同年10月5日、豊前国沼之江にて大友軍の首一つを挙げ、11月8日に吉見正頼から感状を与えられた[5]。
永禄7年(1564年)7月22日、毛利方に通じた武田高信と対立した山名豊数が在城した因幡鹿野城を毛利方の伯耆国人・南条宗勝が攻めた際に[6]は頼貞も合戦に参加して武功を挙げ、同年8月2日に毛利輝元から感状を与えられた[7]。
永禄12年(1569年)の大内輝弘の乱の際には、上領頼規に従って上領頼武、伊藤実信らと共に山口への救援として駆けつけ[8]、10月13日に山口の宮野口で城井小次郎率いる大内輝弘軍1000と交戦。この戦いで頼貞は槍傷を負いながら奮戦した[9]が、上領頼武と伊藤実信らが戦死している。同年11月30日、吉見正頼は吉見民部少輔を通じて宮野口における頼貞の奮戦を賞した[9]。
天正8年(1580年)11月15日、吉見広頼から長門国阿武郡高佐郷のうちの竹下5石余足、吉部郷の内の須賀谷2石5斗足、得佐郷の内の六郎大夫名2石4斗足、大井郷のうちの宗光名1石余足、合計10石9斗余足の地を与えられた[10]。
その後の頼貞の動向は不明であるが、慶長3年(1598年)3月14日に嫡男の吉賀元貞が吉見広行(後の吉見広長)から20石の知行地の相続を認められている[11]ことから、この頃までに頼貞が死去、または、隠居していると考えられる。