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吉見広頼

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時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文11年(1542年)[注釈 1]
改名 亀王丸(幼名)[1]→広頼[1]→入道舸撤[1]
 
吉見 広頼
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文11年(1542年)[注釈 1]
死没 慶長18年6月20日[3](1613年8月6日)
改名 亀王丸(幼名)[1]→広頼[1]→入道舸撤[1]
別名 通称:次郎[1]
戒名 秀巌院殿舸撤大居士[3][注釈 2]
墓所 周鷹寺(山口県萩市大井)[1]
官位 大蔵大輔[1]、三河守[1]
主君 毛利隆元→輝元
氏族 清和源氏範頼流石見吉見氏
父母 父:吉見正頼[1]
母:大宮姫(大内義興の娘)[1]
兄弟 広頼、広正[要出典]
妻 正室:津和野局(毛利隆元の長女)[1]
継室:河原殿(内藤隆春の娘)[1]
側室:高雲院(光井勝良の娘)[1]
子 矢野局(河野通直室、末次元康室)[1]、
正岫寿覚[1]、珠光院(益田広兼正室)[1]、
元頼[1]、広長[1]、宍光院(宍道元信室)[1]、
慶応妙雲(天野元景室)[1]、荘厳院(毛利就頼正室)[4]
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吉見 広頼(よしみ ひろより)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣。石見国津和野城主。

石見国鹿足郡津和野[注釈 3]の三本松城を本拠とする国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。

生涯

天文11年(1542年)、吉見正頼の嫡男として誕生[1]。毛利氏よりその祖先・大江広元の1字を与えられて広頼と名乗る。

父が陶晴賢と対立し、天文23年(1554年)に籠城戦の末に一時降伏した際に人質となったが、翌天文24年(1555年)の厳島の戦いで晴賢が敗死すると解放された。

永禄6年(1563年)に初陣、出雲国白鹿城攻めで本田家吉を討ち取った。

初陣後に毛利隆元の娘・津和野局を正室に迎えたが、元亀2年(1571年)10月6日に先立たれたため、内藤隆春の娘・河原殿を継室に迎えた[1]。

天正7年(1579年)に備後国・美作国に出陣、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いに出陣した。同年、父から家督を譲られる。

病弱で父ほどには信任を受けなかったが、毛利氏に忠実に仕え、天正14年(1586年)の九州平定で吉川元春や小早川隆景らと共に九州に従軍、豊前国香春岳城攻めで功績を上げ、豊臣秀吉から感状を受け取った。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、毛利水軍に加わり三沢為虎、熊谷元直、益田元祥、山内広通諸将と共に伊豆国下田城を落とした。

文禄・慶長の役には病気で出陣できなかったため、嫡男・元頼が代わりに朝鮮半島に渡海したが、元頼は病により帰国し文禄3年(1594年)6月4日[1]に元頼が津和野で病死した。さらに翌年の文禄4年(1595年)4月29日に継室の河原殿も亡くなった[1]。

慶長2年(1597年)は病により次男の広長に家督を譲って隠居し[1]、同年から始まる慶長の役では次男の広長が朝鮮半島に渡海した。なお、広頼には隠居領として1100余石が与えられている[1]。

しかし、家督を相続した広長は毛利氏に反抗的で、慶長4年(1599年)に出奔したため、広頼が当主に復帰し、広長の帰参に腐心することになる。広長は慶長5年(1600年)に復帰したが、同年の関ヶ原の戦いで輝元は周防国・長門国に減封、広頼も津和野を離れて萩に移り住んだ。

慶長9年(1604年)に広長が再び出奔[1]、娘達も先立つなど晩年は不遇であった。

慶長17年(1612年)、吉川広家の次男を婿養子に迎えて「吉見政春」と名乗らせる。

慶長18年(1613年)6月20日に死去[1]。享年72[1]。

広長は広頼の死後に帰参し家督を継いだが、元和4年(1618年)に輝元に討たれ、吉見氏は断絶した。政春も後に大野毛利家を興して、毛利就頼と改名した[3]。

系譜

脚注

参考文献

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