君島一郎 (銀行家)
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出生から大学時代まで
1887年4月16日、栃木県生まれ。栃木県塩谷郡塩原町(現・那須塩原市)の君島五郎の長男[7]。君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営んでいる[9]。
1905年3月、栃木中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)卒業[4]。旧制第一高等学校へと進学する[10]。第一高等学校では野球部に所属し[2][3]、2年先輩であった中野武二の後継者として、1907年から1908年までの2年間[3]二塁手を務めた[2][3]。また、第一高等学校在学中には谷崎潤一郎と親しい友人関係を結んだ[11]。
銀行家時代
1912年に[1][12]東京帝国大学法科大学経済学科を卒業し[1][12]、日本銀行に入行した[1][3][5]。入行後に日銀検査役、大阪支店調査役、函館、松江、岡山、門司各支店長、出納文書各局長を歴任し[3][5][7]、1940年から[3][5]1945年まで朝鮮銀行副総裁を務めたが[3]、敗戦後の1947年から1951年まで公職追放を受けた[3][5]。
公職追放後
公職追放後に、財団法人友邦協会会長となり[3][5]、在任中に勲二等旭日重光章を受章した[3]。
また、明治時代の日本野球草創期に関する研究に取り組み[2][3][5]、1971年1月に学士会会報710号にて、「日本野球発祥の地―それは今の学士会館本館敷地」を、713号にて「野球渡来諸説」を発表した[3]。これらの発表では、1872年(明治5年)に初めてベースボールが日本に伝わり、学士会館本館跡地が発祥の地とよぶべき場所であるという見解を提唱した[2][3]。翌年の1972年にはベースボール・マガジン社より[3]「日本野球創世記」を刊行した[2][3][5]。