鈴木惣太郎
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生い立ち
群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に、鈴木卯三郎の長男として生まれる[1][3]。母方の栗原家は伊勢崎藩の典医を勤める家柄だった[3][1]。
旧制前橋中学校を卒業後、早稲田大学に進学[1][3][4]。結核を患ったことで早稲田大学を中退し、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)に転学して卒業した[4]。その後は中学の先輩・小松晋助が経営する貿易商会で勤務した[1][3]。
1916年(大正5年)ごろにニューヨークに渡る[3]。親戚の帝国劇場専務・山本久三郎からニューヨークの株式取引所所長・ジャクソンへの紹介状をもらったことがきっかけとなり、ニューヨーク・ジャイアンツのホーレス・ストーンハム会長やジョン・マグロー監督との面識を得て、メジャー・リーグを熱心に観戦した[1][3][4]。かたわらコロンビア大学で聴講生として学ぶものの[3]中退[1]。1929年(昭和4年)に帰国した[1]。
大日本東京野球倶楽部の設立
1929年(昭和4年)『米国の野球』を出版[5]。この本が読売新聞社運動部記者・江馬盛の目にとまったことから運動部長・市岡忠男との関係が始まる[5][6]。1931年(昭和6年)8月から『読売新聞』に「米国野球史」を連載[6]。同年の日米野球に際して鈴木と市岡は日本でプロ野球を創設することを話し合い、訪日していたフランキー・フリッシュやフレデリック・リーブからも賛同する意見を得た[6]。このときに協力を約束したフランク・オドールとは帰国後もプロ野球設立に向けてのやりとりが続くこととなった[7]。
1933年(昭和8年)末、オドールは来日して日米野球の契約書を作成した[8]。またオドールは鈴木の故郷・群馬を訪れて敷島球場で前橋中学、前橋工業、高崎工業などの生徒に野球の指導を行った[8]。1934年(昭和9年)9月、鈴木は渡米し、来日を渋っていたベーブ・ルースに対して床屋で説得を試みる[9][3]。鈴木は日本でのルース人気を熱弁し、ルースの似顔絵が大書されていた日米野球のポスターを見せたことでようやく来日の了解を得ることができたというエピソードがある[9][3][10]。1934年(昭和9年)11月の日米野球に際し編成された日本チームを母胎として、同年12月に大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が結成された[1][11]。
翌1935年(昭和10年)の大日本東京野球倶楽部のアメリカ遠征では、オドールが監督として率いることとなったサンフランシスコ・シールズとの試合も実現した[12]。このとき鈴木は大日本東京野球倶楽部の愛称として「トンボ」という案を提案していたが、オドールからニューヨーク・ジャイアンツが一番知られているという話を聞かされた鈴木が「東京ジャイアンツ」の愛称を日本に電報で送り、正力松太郎の了承を得て採用されることとなった[13][12]。
また他球団が設立されるにあたって外国人選手の獲得仲介も行い、名古屋軍監督・河野安通志と親しくなった鈴木はオドールに選手獲得を依頼し、バッキー・ハリスの名古屋軍入団が実現することとなった[14]。
1936年(昭和11年)にも第2回アメリカ遠征を行い鈴木も随行したが、無名な日本のチームには観客が集まらず、赤字となった[15]。1937年(昭和12年)には取締役に就任し、選手のスカウトを任されて熊本へ赴き、川上哲治、吉原正喜らの獲得という成果を挙げた[16]。
しかし日本は戦時体制へと突き進み、選手の入営も目立つようになった[16]。1943年(昭和18年)3月には規則委員会で野球用語を敵性語として日本語に変更することが議題に挙げられ、落胆した鈴木は委員会を途中退出する[16]。1944年(昭和19年)には巨人軍を解雇された沢村栄治にやりきれない思いを打ち明けられ、彼は召集されて帰らぬ人となった[17][16]。この年のシーズンを最後にチームの活動休止が決定された[18]。
戦後のプロ野球再建
1945年(昭和20年)8月に太平洋戦争が終結すると、市岡忠男や鈴木龍二らとプロ野球再建に向けて動き出した[18]。惣太郎は正力松太郎の嘱託秘書という立場を与えられて動き始めたものの、正力はA級戦犯として収監されるに至った[18]。
アメリカ第八軍が後楽園球場を接収する意向を示したことから、日本プロ野球復活のためにはこの球場が必要であると説得を行った[19][20]。神宮球場は接収されるに至ったが、同年11月には神宮球場で復活第1回の東西対抗戦を行い、多くの観客を集めた[21][20]。
また、もとの日本野球報国会を日本野球連盟として復活させることとなり、その副会長に就任した(会長は鈴木龍二)[19][22]。副会長としてアメリカに倣った組織体制の構築に取り組み、1シーズン制、コミッショナー制、各球団の愛称、フランチャイズ制などの導入を主張してこれらを実現した[22]。しかし太陽ロビンスオーナーの田村駒治郎らは経営者という立場から、鈴木の理念に反してオールスターゲームを複数回開催させ、彼らの反対もありフランチャイズ制の導入もなかなか進まなかった[23]。1949年(昭和24年)には読売新聞社の武藤三徳による別所引き抜き事件、読売ジャイアンツ監督の三原脩による三原ポカリ事件の裁定に関与したが、読売をはじめとする連盟に対する批判に苦しめられることとなった[24][25]。同年新球団加盟問題が発端となって2リーグ創設が決定されて日本野球連盟は解散、日本職業野球競技会(のちの日本野球機構)が発足し、鈴木は身を退いて野球評論家としての道を歩むことを決めた[26]。
1951年(昭和26年)に正力の公職追放が解除されると、翌1952年(昭和27年)に正力の影響力のもとで鈴木龍二がセ・リーグ会長に、鈴木惣太郎が日本野球機構取締役に就任した[27]。1953年(昭和28年)には読売興業取締役に就任[28]。
鈴木が『スポーツニッポン』に寄稿を行っていたことや、水原茂監督退任に反対したことから、品川主計読売ジャイアンツ代表との関係が悪化し、品川が退任した1958年(昭和33年)に鈴木は読売興業取締役から退くこととなった[29]。しかし1960年(昭和35年)に読売ジャイアンツ顧問として復帰[30]。
1965年(昭和40年)には亜細亜大学野球部監督であった生原昭宏を、ロサンゼルス・ドジャースのオーナー・ウォルター・オマリーに引き合わせる役割を果たした[31]。
1968年(昭和43年)度特別表彰として野球殿堂入りした[32]。
1972年(昭和47年)に読売ジャイアンツ顧問を退任[33]。1973年(昭和48年)には勲三等瑞宝章を受章[33]。翌1974年(昭和49ね)には春の園遊会に招かれる[33]。
東宝の野球映画『不滅の熱球』の原作も手掛けている。
記念施設

群馬県伊勢崎市では惣太郎が日本野球発展に尽くした功績を称え、伊勢崎市営野球場に「鈴木惣太郎記念球場」と命名した。また鈴木惣太郎記念球場敷地内には鈴木惣太郎の胸像レリーフが建立されており、球場施設内には鈴木の遺品などが展示されている。
著書
- 『近代野球戦術』博友社、1950年
- 『ベーブ・ルース』
- 『ベーブ・ルース』氏田秀男編・解説、弘文出版、2018年
- 『ルウ・ゲーリッグ』
- 『日本一沢村栄治投手』
- 『プロ野球今だから話そう』ベースボール・マガジン社、1958年
- 『日本プロ野球外史』ベースボール・マガジン社、1976年
- 『アメリカ野球史話』ベースボール・マガジン社、1966年
- 『米国の野球』三彩社、1929年
- 『米国名選手伝』
- 『沢村栄治 不滅の大投手』恒文社、1982年
