呂嬃
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人相見の出来た父の呂公が、沛公(劉邦)はいずれ大人物になると占ったため、姉の呂雉は劉邦に、呂嬃は樊噲に嫁いだという[1]。
紀元前195年、樊噲が盧綰の征伐へと赴いていた際、或る者が「樊噲は劉如意と戚夫人を害そうとしている」と劉邦に讒言し、これに激怒した劉邦が陳平に賜死の旨の詔勅を授けた。陳平は呂雉の権勢を恐れ、また嘗て樊噲と交誼があったことも考慮し、死を賜すことまではせず、樊噲の身柄を拘束して長安へ送り、劉邦自身の叡断を仰ぐことに留めた。但し、樊噲が長安に押送された際には劉邦は既に崩じて子の劉盈(恵帝)が践祚、呂雉が国政を専らにしており、樊噲はこの後直ぐに釈放された[2]。
一方で呂嬃はこれが陳平の智謀であったことは知っており、故に陳平を快く思わず、呂雉に「陳平は丞相に任ぜられていながらも、毎日酒色に耽って政務を顧みていない」などと讒言した。陳平は呂嬃が讒言していると知ると、敢えて放恣に耽ったため、これを聞き喜んだ呂雉は、呂嬃の居る場で陳平に 「俗に子供や女の言うことは全て当てにはならないと言うが、結局は貴方が私にどう接してくれるかであり、呂嬃の讒謗などは気にしないでよい」と言ったという[3]。
紀元前188年に恵帝が崩じた後も、呂雉は引き続き宮廷に君臨し、宗室の劉氏の権勢を凌いで二人の少帝(前少帝・後少帝)を廃立・弑逆するなど権勢を振るい、呂嬃自身もまた呂雉の独裁的な権力を笠に着たため、群臣からの顰蹙を買うに至った。
紀元前180年呂雉が薨じ、伴って陳平・周勃ら漢朝の遺臣や劉章ら劉氏の一族が政変を起こすと、酈寄(中国語版)の妄言を信じた呂禄が軍権を返上しようとしたが、呂氏の中でも賛否は分かれて結論には至らず、軈て呂嬃のもとを訪ねた。呂嬃はこれに激憤し、「軍権を手放せば、我が一族は立つ瀬を失う。こんな宝物、他人に奪われるくらいなら」と言って、宝器を屋外に投げ散らしたという。果たして呂嬃は子の樊伉もろとも誅殺され、陳平らは代王劉恒(文帝)を奉戴して宮廷の紊乱を収拾した(呂氏の乱)[4][5]。
脚注
- ↑ 『史記』「高祖本紀」:單父人呂公善沛令,避仇從之客,因家沛焉。沛中豪桀吏聞令有重客,皆往賀。蕭何為主吏,主進,令諸大夫曰:「進不滿千錢,坐之堂下。」高祖為亭長,素易諸吏,乃紿為謁曰「賀錢萬」,實不持一錢。謁入,呂公大驚,起,迎之門。呂公者,好相人,見高祖狀貌,因重敬之,引入坐。蕭何曰:「劉季固多大言,少成事。」高祖因狎侮諸客,遂坐上坐,無所詘。酒闌,呂公因目固留高祖。高祖竟酒,後。呂公曰:「臣少好相人,相人多矣,無如季相,願季自愛。臣有息女,願為季箕帚妾。」酒罷,呂媼怒呂公曰:「公始常欲奇此女,與貴人。沛令善公,求之不與,何自妄許與劉季?」呂公曰:「此非兒女子所知也。」卒與劉季。呂公女乃呂后也,生孝惠帝、魯元公主。
- ↑ 『史記』「樊酈滕灌列傳」樊噲傳:其後盧綰反,高帝使噲以相國擊燕。是時高帝病甚,人有惡噲黨於呂氏,即上一日宮車晏駕,則噲欲以兵盡誅滅戚氏、趙王如意之屬。高帝聞之大怒,乃使陳平載絳侯代將,而即軍中斬噲。陳平畏呂后,執噲詣長安。至則高祖已崩,呂后釋噲,使復爵邑。
- ↑ 『史記』「陳丞相世家」:呂嬃常以前陳平爲高帝謀執樊噲,數讒曰:「陳平爲相非治事,日飲醇酒,戲婦女。」陳平聞,日益甚。呂太后聞之,私獨喜。面質呂嬃於陳平曰:「鄙語曰『兒婦人口不可用』,顧君與我何如耳。無畏呂嬃之讒也。」
- ↑ 『史記』「呂太后本紀」:太尉絳侯勃不得入軍中主兵。曲周侯酈商老病,其子寄與呂祿善。絳侯乃與丞相陳平謀,使人劫酈商。令其子寄往紿說呂祿曰:「高帝與呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已布告諸侯,諸侯皆以為宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之國守藩,乃為上將,將兵留此,為大臣諸侯所疑。足下何不歸印,以兵屬太尉?請梁王歸相國印,與大臣盟而之國,齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。」呂祿信然其計,欲歸將印,以兵屬太尉。使人報呂產及諸呂老人,或以為便,或曰不便,計猶豫未有所決。呂祿信酈寄,時與出游獵。過其姑呂媭,媭大怒,曰:「若為將而棄軍,呂氏今無處矣。」乃悉出珠玉寶器散堂下,曰:「毋為他人守也」
- ↑ 『史記』「樊酈滕灌列傳」樊噲傳:伉代侯九歲,高后崩。大臣誅諸呂、呂須婘屬,因誅伉。舞陽侯中絕數月。孝文帝既立,乃復封噲他庶子市人為舞陽侯,復故爵邑。市人立二十九歲卒,謚為荒侯。子他廣代侯。六歲,侯家舍人得罪他廣,怨之,乃上書曰:「荒侯市人病不能為人,令其夫人與其弟亂而生他廣,他廣實非荒侯子,不當代後。」詔下吏。孝景中六年,他廣奪侯為庶人,國除。