呂釈之
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生涯
秦末の反乱に際し、客将として劉邦の陣営に加わり、三秦の地を攻めて功績を挙げた。紀元前206年に劉邦が漢王に封ぜられると、呂釈之は沛県豊邑に戻り、父の呂公と劉邦の父の劉太公を護衛した。
高祖6年(紀元前201)、正月丙戌の日、建成侯に封ぜられた。その食邑は史書に記録されていない。
劉邦は前漢を建国した後、呂后の子で太子に立てられていた劉盈(後の恵帝)が惰弱であるとして廃太子し、側室の戚夫人の子の劉如意を太子に立てようと考えた。呂后はこれを深く憂慮し、呂釈之に張良のもとへ赴いて献策を受けるよう命じた。呂釈之は張良に強く迫って策を請うと、張良は劉邦が何度も招聘に失敗した4人の賢人、東園公・甪里先生・綺里季・夏黄公を招いて劉盈の師に就けるよう助言した。この4人は髭眉が皓白の老人で、商山に隠遁していたことから「商山四皓」と呼ばれていた。呂釈之は張良の指示に従って商山四皓を長安に招くことに成功すると、4人を自分の屋敷に賓客として滞在させた。
高祖11年(紀元前196年)、英布が反乱を起こすと、病床にあった劉邦は劉盈に軍勢を率いて鎮圧に向かわせようとした。これを知った商山四皓は劉盈を守るために呂釈之に助言し、呂后を説得役として劉邦に進言させた。結果、劉盈は長安に留まることとなり、劉邦自ら軍勢を率いて討伐に向かった。
高祖12年(紀元前195年)、英布討伐から帰還した劉邦はますます劉盈の廃太子を強く望むようになった。家臣たちは相次いで反対したが、劉邦の決意を覆すには至らなかった。しかしその後、宮中で開かれた宴席で、劉盈に付き従う商山四皓を目にした劉邦はついに考えを改める。かつて自分の招聘には決して応じなかった商山四皓が劉盈を補佐する姿に、もはや太子の地位が盤石であることを悟ったのである。こうして劉盈の廃太子は撤回された。