周処

From Wikipedia, the free encyclopedia

出生 236年嘉禾5年)
揚州呉郡陽羡県
拼音 Chōu Chù
子隠
周魴
周処像。川にて蛟龍と格闘している。
周処像。川にて蛟龍と格闘している。

無難督
出生 236年嘉禾5年)
揚州呉郡陽羡県
死去 297年2月12日元康7年1月4日
雍州
拼音 Chōu Chù
子隠
諡号 清流亭孝侯(西晋)
主君 孫休孫晧
テンプレートを表示

周 処(しゅう しょ、嘉禾5年(236年)- 元康7年1月4日[1]297年2月12日))は、中国三国時代から西晋の武将。子隠・西晋に仕えた。揚州呉興郡陽羡県(現在の江蘇省無錫市宜興市)の人。父は周魴。子は周玘周札

呉の有力な豪族の家に生まれたが、父の晩年の子であったため、幼くして父親を失った。周処は若い頃は乱暴者でよく狼藉を働き、郷里の人々に恐れられていた。

ある時、周処は郷里の父老に「今年は平和で豊作だったのに、なぜ皆喜んでいないのか」と尋ねた。すると父老は「南山の白額虎、長橋の蛟龍、そしてそなたの『三害』がいなくならない限り、喜ぶ事ができない」と答えた。周処はそれを聞くと、山に赴いて虎を刺し殺した後、川に入って蛟龍と戦い、三日三晩格闘し数十里も流された末、ようやくこれを始末した。郷里の人々は周処が死んだものと思い大喜びしたという。戻ってきた周処は、自分がどれほど人々に憎まれていたかをようやく知った。この時の「周処除三害」の故事は京劇の演目にもなっている。

そこで改めて自らの身を修めようとして、陸機陸雲兄弟の元を訪ねた[2]。陸機が留守であったため、陸雲に面会した周処は、自分の事情を告げた後「自らの行ないを改めたいのですが、私は既に歳をとっておりますので、もう手遅れでしょうか」と問うた。陸雲は「古代の人は『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』と言いました。あなたはまだ前途に見込みがありますよ」と答えて励ました。

かくして周処は行ないを改め学問に励み、翌年には州に招かれ、呉の東観左丞となった。孫晧時代の末年には無難督となった。

天璽元年(276年)8月、呉興の陽羡山に長さ十丈あまりの石があり、それは空洞があるので「石室」と呼ばれていたが、各所に瑞祥が現れていると報告された。兼司徒の董朝、兼太常の周処が陽羡県へ行き、国山として封禅の儀式を行い、同地に「封禅国山碑」が立てられた。

天紀4年(280年)、西晋が呉を滅ぼした時、西晋の王渾建業の宮中で宴会を開き、呉の群臣たちに「祖国が滅びて口惜しくはないか」と尋ねた。周処が「(あなたがかつて仕えていた)は呉よりも先に滅びました。国の滅亡に口惜しい思いをしたのは、一人に限りませんでしょうよ」と答えたため、王渾は大変恥じ入ったという。

西晋に仕えると洛陽へ赴き、続いて新平郡太守広漢郡太守を歴任し、いずれも優れた業績を挙げた。老いた母親のために辞職して帰郷したが、まもなく楚(彭城郡)の内史に任命された。赴任する前に、改めて散騎常侍として都に呼び出される辞令を受けたが、周処は「古人は大を辞して小を辞さず」といい、先に楚国へ赴任し治績をあげた後で、改めて上京した。人々は彼の行ないを賞賛したという。

朝廷に入って御史中丞となったが、寵臣・権力者であろうと憚る事なく不正を弾劾した。梁王司馬肜が法に背いた時も周処は厳しくこれを追及したので、彼の怨みを買うことになった。

元康6年(296年)11月、族の斉万年が反乱を起こすと、朝廷の人々は周処を建威将軍に任命し、司馬肜と夏侯駿の配下に付けて討伐に向かわせる事にした。中書令陳準はこれに反対して「夏侯駿と梁王(司馬肜)は皇族ですが、将軍の器ではありません。勝っても名声は上がらず、負けても刑罰を恐れる必要はないからです。周処は呉の人であり、忠義に篤く勇敢ですが、朝廷に敵が多く孤立しております。積弩将軍の孟観に精兵一万人を与えて周処の先鋒とすれば必ず賊を鎮圧できるでしょう。しかしそうしなければ、梁王は周処に先鋒を命じ、故意に援軍を出さず見殺しにするでしょう」と上奏したが、朝廷がこの意見を聞き入れることは無かった。孫秀は周処へ、老母の事を口実に従軍を辞退する事を勧めたが、周処は「忠と孝の両方を全うする事はできない、今こそ私の死に時なのだ」と述べ、出陣した。

この事を聞いた斉万年は「周府君(周処)はかつて新平郡太守として文武の才が知れ渡った。もし全権を任せられていたならとても敵う相手ではない。しかし、誰かの指揮下に入るのなら、恐れることはないな」と言ったという。果たして周処は司馬肜と夏侯駿に陥れられる事となり、僅か五千の兵で斉万年率いる七万の兵と戦う羽目になった。周処は「後援がない軍は必ず負けます。我が身が滅ぶだけなら構いませんが、それが国の恥となります」と司馬肜らへ進言したが、彼らは聞き入れないばかりか、司馬肜はさらに周処軍の将兵が食事をする時間も与えずに出撃を強要した。

死を覚悟した周処は全軍を挙げて力戦し、朝から夕暮れまで戦い続け、敵兵一万を撃破した。だが、矢が尽き武器が無くなり援軍も来ないため、次第に形勢は悪化していった。撤退を勧める者もいたが、周処は剣を持ち「今日は忠義のために命を棄てる日である」と答え、さらに戦い続けたが、ついに力尽きて戦死した。朝廷は周処を見殺しにした事で司馬肜を叱責したが、実際に裁くことはなかった。

周処は後に平西将軍を追贈され、潘岳閻纘から哀悼の詩を捧げられた。子が後を継いだ。

建武元年(317年)、司馬睿東晋の皇帝となると、太常賀循からの提議によって、「孝」のを授けられた。

周処には『黙語』30篇の他、『風土記』・『呉書』などの著作があったという。

江蘇省宜興市には、周処と一族の墓が発見されている。墓は全て通路のある磚室墓となっており、中からは精巧な作りの磁器や金銀の服飾品など、歴史的に見て非常に貴重な副葬品が多数発掘されている。

家系図

脚注

参考資料

Related Articles

Wikiwand AI