聖徳太子二王子像
聖徳太子を描いた肖像画
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聖徳太子二王子像(しょうとくたいしにおうじぞう)は、中央の人物を聖徳太子、左右の侍者を2人の王子として伝える古代の肖像画。「太子俗形御影(たいしぞくぎょうみえい)」、「唐本御影(とうほんみえい)」とも称される。

法隆寺に伝来し、1878年(明治11年)に「法隆寺献納宝物」の一つとして皇室に献納された。現在は御物であり、宮内庁が所蔵する[1]。日本最古の肖像画とも評される[2][3]。
中央像は、推古天皇の摂政としての太子を表す「摂政像」に分類される。2人の侍者は、太子の弟の殖栗皇子と、太子の子の山背大兄王とする伝承があるが、この比定は鎌倉時代の『古今目録抄』において仮説として提示されたものである。制作時期については、7世紀後半から8世紀前半にわたる諸説がある。
1983年には、表具に「川原寺」という墨書があるとする説が提起され、像主を聖徳太子とする伝承が疑問視されたが、のちに表装裂の文字の誤読であったことが明らかとなった。近代には、本像の太子像が日本銀行券の図柄として広く知られるようになった[4]。
図像
奈良国立博物館の図録では、本像の中央像は、推古天皇の摂政になった22歳以降の太子の姿を表す、いわゆる「摂政像」に分類されている[5]。太子の図像にはほかに、念仏する幼い太子を表す南無仏太子像(2歳)、父・用明天皇の病気平癒を祈る孝養像(16歳)、経典を講義する講讃像(35歳)などが知られている。
摂政像には、ほかに四天王寺の楊枝御影(ようじのみえい)と、法隆寺の水鏡御影(みずかがみのみえい)がある[5]。いずれも正面向きの坐像で、聖徳太子の自画像に由来するとの伝承をもつが、楊枝御影は49歳、水鏡御影は35歳の姿と伝えられている[6]。
摂政像は冠をかぶり、赤系統の袍を身に着け、両手に笏を執り、腰に直刀を佩用する姿を共通の特徴とする[5]。
法隆寺の彫像『聖徳太子および侍者像』の太子像は、冕冠をかぶる点では講讃像の形式をとる一方、袍を身に着けて笏を執る姿には摂政像の特徴が取り入れられており、両者が合体した図像ともいえる[7]。
本像の2人の侍者は、右前方(向かって左)が太子の弟の殖栗皇子、左後方(向かって右)が太子の子の山背大兄王とされる。一方、侍者は伝閻立本筆『歴代帝王図巻』の構図に倣って配されたもので、「個性なき侍者」であるとする説もある[8]。
伝来と名称
本像が法隆寺に収蔵された時期は明らかでない。保延6年(1140年)、大江親通(? - 1151年)が法隆寺で本像を実見し、『七大寺巡礼私記』に「太子俗形御影」と記したのが、現存文献上の初見である[9]。「俗形」とは、仏教帰依を示す袈裟を着けた姿ではなく、俗人の官服姿で描かれていることを指す[10]。
13世紀半ば、法隆寺の僧・顕真が編纂した『古今目録抄』上巻では、本像を「唐本御影」と呼び、その由来について伝えられていた諸説のうち二説を紹介している。
一説によると、唐人が結縁のために聖徳太子の前へ詣でた際、太子が応現した姿で現れたため、唐人はその姿を2枚の絵に描き、1枚を日本に残し、もう1枚を唐へ持ち帰ったという。亀田孜は、ここでいう応現を、太子が唐人の前に唐風俗の姿で現れたことを指すものと解している[11][12]。

もう一説は、顕真と同時期に法隆寺の復興に尽力した西山法華山寺の慶政によるもので、太子が姿を現した相手を唐人ではなく、百済の阿佐太子とする[11]。
『古今目録抄』には、嘉禎4年(1238年)に本像を見た関白・近衛兼経が、これは外国の服装ではなく古い日本の装束を描いたものであり、昔は皆このような姿をしていたのだと述べたという話も記される。兼経は、2人の童子も日本の王子と解すべきであり、本像は聖徳太子の「真実の御影」であると述べたとされる[12]。
また、傍注には、兼経もしくは顕真が、王子の一人を山背大兄王、もう一人を殖栗王とする可能性を疑問形で記している[12][注 1]。顕真は「歟(か)」と記して断定を避け、田村王子(舒明天皇)と由義王(山背大兄王の子)とする説も併記している[13]。その後、2人の侍者を山背大兄王と殖栗皇子とする説が広まった。
聖徳太子と阿佐太子の関係については、『日本書紀』推古天皇5年(597年)4月条に、百済王が「王子阿佐」を遣わして朝貢させたとの記述がある[14]。
また、藤原兼輔『聖徳太子伝暦』には[注 2]、聖徳太子が阿佐太子と対面した際、太子の眉間から長さ3丈ほどの白い光が放たれたという説話が記されている。亀田孜は、慶政のいう太子の現れた姿を、この説話における応現と解している[12]。太子と阿佐太子が対面する場面は、治暦5年(1069年)制作の『聖徳太子絵伝』にも描かれている。
服装
本像の中央像は、黒色の冠をかぶり、赤系統の袍を着け、両手に笏を執り、腰に直刀を佩用する姿で描かれている[5]。
袍の裾はくるぶし付近まで達し、『天寿国繡帳』(622年)に描かれた、袴や褶(ひらみ、袴や裳の上に着けた短い襞状のもの)が見える丈の上衣とは異なる。
赤色の袍は、楊枝御影や水鏡御影にもみられる摂政像の特徴である。四天王寺には、聖徳太子伝来7種の宝物の一つとされる「唐花文袍残欠」が伝わり、「太子緋御衣」とも呼ばれる[15]。
唐花文袍残欠は、茜染めによる飛鳥時代の赤色の袍の一部とされる。表地には組織と文様の異なる2種類の綾地が用いられ、裏に絁(あしぎぬ)を付けた袷仕立てであったと考えられている。この袍残欠と、赤色の袍を着る太子像との関連も指摘されている[15]。
- 飛鳥時代の朝服(復元)
- 平安時代初期の朝服(復元)
- 長屋王邸跡出土木簡に描かれた官人
- 長屋王邸跡出土木簡に描かれた童子
制作年代
本像の制作時期については、7世紀後半から8世紀前半にわたる諸説が提示されてきた。制作年代は、服制、画風、太子信仰の展開などを根拠として論じられている。
服制からの推定
黒川真頼は、本像に描かれた服装は推古朝の制度とは合致せず、聖徳太子の存命中に描かれたものではないとした。また、皇極天皇が斉明天皇として重祚した時代まで、すなわち661年以前の服制とも合わないと論じた[16]。
笏

黒川は、中央像が持つ笏は大化3年(647年)以後に制度化されたものであり、皇極朝以前には用いられていなかったとした。また、笏は中国由来の制度であり、中国の風儀に否定的であった蘇我氏が主導した時代には採用されなかったと論じている[16]。
日本における笏の使用規定として現存文献上確認できる早い例に、『続日本紀』養老3年(719年)2月条がある。同条には、「職事主典已上把笏。其五位以上牙笏。散位亦聽把笏。六位已下木笏。」と記されている[17]。
黒川はさらに、近江八幡市の呉神社(公禮八幡神社)に伝来した吉士長丹像が笏を持つことを挙げ、孝徳天皇の時代には笏が用いられていたとする説を述べた[16]。吉士長丹像は現在、模本が伝わっている。
袍

黒川は、中央像の赤い袍を、天武天皇14年(685年)に定められた皇族用の「朱華衣(はねず)」とみなした[18]。
『日本書紀』天武天皇14年7月条には、浄位以上の者が朱華を着用することを定めた規定があり、「朱華。此云波泥孺」と訓注されている[19]。朱華色は浅紅色である。
黒川は、大宝令の服制では皇族の服色が深紫に改められたと解し、本像を天武天皇14年から持統朝までの間に制作されたものと推定した[18]。
被り物

黒川は、中央像がかぶる黒色の被り物を漆紗冠(しっしゃかん)とみなした[18]。漆紗冠は、羅を漆で塗り固めて作る黒色の冠とされる。
黒川は、天武天皇11年(682年)の衣冠制度改革と男子の結髪開始を漆紗冠の導入と結びつけ、本像の被り物を同改革以後のものと考えた[18]。『日本書紀』天武天皇11年3月条には従来の衣冠制度を廃止する詔が、同年4月条には男女の結髪を定める詔が記され、同年7月条には結髪を開始したことが記されている[19]。
黒川は、漆紗冠は日常の宮廷服である朝服に用いる冠であり、最高礼装である礼服であれば皇太子は冕冠をかぶるはずだとして、本像の服装を臣下の朝服に近いものと解した[18]。
礼冠と礼服の規定は『養老律令』衣服令にみえ、皇太子は冕冠を着用するとされる。一方、『大宝律令』の衣服令は現存せず、大宝令以前の冕冠の制度については明らかでない。
『旧唐書』倭国伝には、武周の武則天に謁見した遣唐使・粟田真人が、中国の進徳冠に似た冠をかぶり、その頂に花の飾りを付けていたと記される[20]。黒川は、天智天皇7年(668年)に日本で初めて冕冠が採用されたとする説も述べている[21]。
一方、関根真隆は、漆紗冠とは羅を漆で塗り固めたものを指すが、中央像の被り物はそのようには見えないとする。関根は、これを幞頭(ぼくとう)と呼ぶべきであり、奈良時代の朝服に用いられた頭巾(とうきん)も幞頭と同系統で、漆紗冠とは別系統の被り物であったと論じている[22]。
奈良時代の頭巾は、のちに形態を変化させ、平安時代の垂纓冠へ発展したとされる。また、日本の冠は、冕冠や礼冠を除き、黒色を基本とするようになった。
高松塚古墳壁画・長屋王木簡との比較

1972年に高松塚古墳が発掘されると、墓室壁画に描かれた男子群像の服装と本像の服装との比較が行われた。
高田倭男は、当時、高松塚古墳壁画が持統・文武朝に描かれたものと考えられていたことを前提として、壁画の男子群像と本像の服装に相違があることから、本像をそれより時代の下る8世紀初頭の作とみる見方が生じたと述べている[23]。
その後、遣唐使が持ち帰ったとみられる副葬品「海獣葡萄鏡」の存在などから、高松塚古墳を704年以後の築造とする説が提示された。また、壁画の人物が左衽で描かれていることから、養老3年(719年)に右衽へ改める令が出される以前に描かれたとする見方もある[24]。
また、奈良時代の長屋王邸跡から出土した木簡に描かれた官人や童子の服装が本像と類似することも指摘されている。武田佐知子は、本像が唐画の模写ではなく日本の人物を描いたものであるとすれば、奈良時代の服装を表した可能性があると論じている[25]。
画風からの推定
金原省吾は、本像の衣文に沿う陰影表現を、西域から中国へ伝わり、六朝時代の肖像画に用いられた画法と関連づけた。さらに、日本の肖像画では奈良時代に入るとこの陰影表現が失われたとし、本像をそれ以前の画風を伝える作品と位置づけた[26]。
内藤湖南も、本像の陰影表現を中国から伝来した古い肖像画様式と関連づけて論じている[27]。
また、中央に主要人物を置き、その左右に2人の侍者を配する構図は、伝閻立本筆『歴代帝王図巻』との類似が指摘されている。
太子信仰からの推定
具体的な制作時期としては、太子の没後100年にあたる養老6年(722年)を挙げる説がある[28]。
また、太子信仰の高まりとともに、太子が居住した斑鳩宮跡に夢殿を中心とする法隆寺東院伽藍が整備された天平11年(739年)を、本像の制作時期の候補とする説もある[29]。
像主
中央に描かれた像主については、俗人の姿でありながら左右に侍者を伴う「三尊形式」で描かれていることが、聖徳太子像とみなす根拠の一つとされる。
三尊形式とは、仏教美術において、阿弥陀如来の左右に観音菩薩と勢至菩薩を配する「阿弥陀三尊」のように、中央の尊像と二体の脇侍によって構成される形式をいう。
武田佐知子は、古代日本には西洋のポートレートのように個人の肖像を描く習慣がなく、肖像は信仰の対象として制作されたと説明している。また、聖徳太子の死後まもなく太子信仰が成立し、当時、俗人の姿のまま信仰対象となった人物はほかに見当たらないことから、本像の中央像を聖徳太子とみるのが妥当であるとしている[30]。
「川原寺」墨書説

1983年、当時の東京大学史料編纂所所長・今枝愛真は、本像の表具の右下に「川原寺」と読める墨書があると指摘した。今枝は、本像がかつて大和飛鳥の川原寺(弘福寺)に伝来したものであり、聖徳太子とは無関係の人物を描いた可能性を提起した[31]。
今枝はさらに、川原寺が歴史的に聖徳太子との関係が薄いため、本像を聖徳太子像と仮託するうえで「川原寺」の銘が不都合となり、法隆寺によって墨書が削り取られたと推測した[31]。
これに対して、大江親通が12世紀に法隆寺で本像を実見していることから、表具がそれ以前から一度も張り替えられていないと考えるのは不自然であることや、表具の表側に所蔵寺院名の墨書を記すこと自体が不自然であることが指摘された[32]。
その後、今枝が墨書とみなしたものは、表装裂に織り込まれた「寿・寧・康・福」のうち「康」の字であり、その銀糸が長年の間に剥落したため「川原寺」のように見えたことが明らかとなった[33][34]。
本像を実際に調査した美術史家・河原由雄によれば、表具はその状態から江戸時代のものとみられ、1963年頃にも修理されているため、中世以前の表具ではないという[35]。
本像は御物であるため、専門家が直接調査できる機会が限られていた。今枝も展覧会でガラス越しに本像を見たことをもとに説を提示していたことが、誤読の一因となったとされる[35]。