土御門顕定

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時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建保3年(1215年
別名 高野入道
 
土御門顕定
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建保3年(1215年
死没 弘安6年8月12日1283年9月4日
別名 高野入道
官位 正二位権大納言
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 村上源氏久我流土御門家
父母 父:土御門定通
母:源成実娘・承明門院女房左衛門佐
兄弟 顕定顕親定済顕良、覚顕、顕雲、通円
養兄弟:顕方
源雅通
定実、定覚、顕済、定助、道海
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土御門 顕定(つちみかど あきさだ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿内大臣土御門定通の長男。官位正二位権大納言。父は後嵯峨天皇の擁立者であり、顕定も後嵯峨天皇に親しく仕えるが官職の不満から出家し、天皇を大いに歎息させた。

建保3年(1215年)、後鳥羽天皇の側近である土御門定通の長男として誕生。母は源成実の娘で、伯母の源在子(承明門院)に仕えた女房であった。

建保7年(1219年従五位下叙爵承久3年(1221年)従五位上に叙せられるが、同年5月に後鳥羽上皇らが承久の乱に起こし、後鳥羽院政の関係者であった父・定通は失脚してしまう。また、顕定の従兄にあたる土御門上皇土佐国に流され、土御門家は一時凋落する。

貞応3年(1224年侍従に任ぜられ、嘉禄2年(1226年正五位下に昇叙。嘉禄3年(1227年右近衛少将を務め、安貞2年(1228年従四位下甲斐介に叙任。禁色を聴される。寛喜2年(1230年)右近衛中将に転じ、中宮権亮を兼ねた。寛喜4年(1232年)従四位上、貞永2年(1233年正四位下伊予権介に叙任され、嘉禎2年(1236年)には四条天皇蔵人頭に補任される。嘉禎3年(1237年従三位参議に叙任され公卿に列し、嘉禎4年(1238年)さらに正三位越前権守に叙任された。延応元年(1239年右衛門督検非違使別当を経て、権中納言に任官。仁治2年(1241年)には従二位に進み、帯剣を聴された。

仁治3年(1242年)正月9日、事故で四条天皇が頓逝すると、父・定通や北条泰時らによって邦仁王が擁立され、後嵯峨天皇として即位する。すると顕定は葉室資頼藤原道嗣を差し置いて権大納言に抜擢される。さらに寛元元年(1243年)には正二位に叙せられて、藤原親俊藤原為経二条良教位階を超えるなど、急速に昇進を始める。寛元4年(1246年)に後嵯峨天皇が院政を開始すると、院の執事別当に補任されるが、実権は父・定通が握っていた。

父・定通の死後、顕定は近衛大将への任官を希望する。自分の擁立者の嫡子の願いゆえ、後嵯峨上皇はこれを承諾するが、西園寺実氏が横槍を入れ、上皇は西園寺家は蔑ろにできないと思い、西園寺公基公相兄弟を近衛大将に任官させた。除目の結果を聞いた顕定はこれを大いに恨んだ。建長7年(1255年)に入っても、正月1日の元日節会や、同7日の白馬節会、同16日の踏歌節会ではそれぞれ内弁を勤め仕り、2月26日には祈年穀奉幣の行事に参仕するなど、精力的に活動を行う[1]が、4月13日に先の人事を憂えて突如高野山にて出家してしまった。したがって、彼は高野入道とも呼ばれています。

正嘉3年(1259年)、上皇は高野山御幸を行った。関白鷹司兼平や西園寺公相、洞院実雄近衛基平など多くの公卿がこれに供奉し、都に残るものはほとんどいなかったという。この御幸のついで、顕定の庵室を訪ねて対面を望んだが、顕定は昨夜のうちにその庵室を掻き払い、既に人はいなかったため、上皇は「今更に見えじとなり。いとからい心かな」と侘言を発したという[2]

弘安6年8月12日(1283年9月4日)、69歳で薨去した。豊原信秋に習ってをよくし、宝治2年12月25日(1249年1月10日)に行われた御遊などで笙を吹いている[3]

官歴

系譜

脚注

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