堀河康胤
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祖父の高倉永家から分かれた父の親具からさらに分かれて堀河家を起こした。慶長7年(1602年)叙爵。元和5年(1619年)後水尾天皇側近としておよつ御寮人事件に連座し中御門宣衡・土御門久脩らと共に出仕停止となり配流[1]。翌元和6年(1620年)6月に将軍・徳川秀忠の奏請により釈免され帰京[2][3][4]。寛永7年(1630年)に従三位となり、公卿に列した。寛永9年(1632年)高松宮好仁親王の家僕らが康胤の屋敷に押し寄せて暴行を受ける[5]。
左衛門督・参議・踏歌節会外弁を経て、寛文3年(1663年)権中納言に叙任されたが、1週間で辞職する[6][7]。同年12月に出家し休山と号す[7]。寛文13年(1673年)薨去[7][8]。享年82[7][8]。