堀河家
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権大納言高倉永家の四男で権中納言水無瀬兼成の養子となっていた親具は、養父に実子・氏成が生まれたために文禄4年(1595年)に水無瀬家を出ることになり[4]、東国に下って徳川家康のもとに身を寄せた[5]。その長男康胤は、後に家康の奏上で朝廷より新たな堂上家を建てることを許された[4][5]。なお、後に次男信孝も樋口家を創設している[6]。
家格は羽林家[1][2]、新家[2]、外様[4]。江戸時代の所領の表高は180石[4][注釈 1]。江戸時代の邸宅は乾御門を上った西側にあった[4]。
康親の子である親賀・康隆親子(ただし、康隆は祖父・康親の養子になっているため、系譜上は兄弟)、親賀の実弟で岩倉家を継いでいた具視は、廷臣八十八卿列参事件に参加している。また、康親の娘堀河紀子は孝明天皇の寵愛を受けて皇女を儲けたために康隆も天皇の侍従に抜擢された。明治維新後も明治天皇の元で岩倉具視は右大臣を務め、堀河康隆も引き続き侍従を務めるなど、宮中において重きをなした。
明治2年(1869年)に公家と大名家を統合した華族制度が誕生すると堀河家も旧公家として華族に列した。
明治3年に定められた家禄は、現米で276石9斗[7][注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万2543円81銭8厘(華族受給者中327位)[9]。
明治前期の親賀の住居は東京府麹町区裏霞ヶ関にあった。当時の親賀は淑子内親王祗候を務めていた。当時の家扶は越智義路[10]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 3]として康隆が子爵位を授けられた[3]。