堯翁院 (長野県阿智村)

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所在地 長野県下伊那郡阿智村浪合宮本町994−8
位置 北緯35度22分28.0秒 東経137度41分40.0秒 / 北緯35.374444度 東経137.694444度 / 35.374444; 137.694444座標: 北緯35度22分28.0秒 東経137度41分40.0秒 / 北緯35.374444度 東経137.694444度 / 35.374444; 137.694444
山号 尹良山
宗派 曹洞宗
堯翁院
所在地 長野県下伊那郡阿智村浪合宮本町994−8
位置 北緯35度22分28.0秒 東経137度41分40.0秒 / 北緯35.374444度 東経137.694444度 / 35.374444; 137.694444座標: 北緯35度22分28.0秒 東経137度41分40.0秒 / 北緯35.374444度 東経137.694444度 / 35.374444; 137.694444
山号 尹良山
宗派 曹洞宗
本尊 十六善神
創建年 天正3年(1575年
公式サイト 堯翁院
法人番号 3100005009684
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堯翁院(ぎょうおういん)は長野県下伊那郡阿智村浪合にある曹洞宗の寺院。山号は尹良山 (いんりょうざん)。

天正3年(1575年)の開創と伝わるが、開山・開基とも不明である。

元は浪合宿の南町裏にあり、当地の豪族であった原氏(浪合氏・現在の千葉氏)の氏寺であった。

宮の原にあった聖光寺が戦国時代の兵火によって退転したため後醍醐天皇の皇孫である尹良親王の自筆とされる大般若波羅蜜多経の一部が堯翁院に移された。他に尹良親王の位牌が現存する。位牌には以下の文言が記されている。

應永三年[1]丙子天 大龍寺殿一品 尹良親王 尊儀 三月廿四日

裏書によると、この位牌は、享保7年(1722年)に、堯翁院八世の禅山冠宗によって再度作成されたものである。

堯翁院は尹良親王の位牌所であったことから尹良親王を祭神とする浪合神社との関係が深かった。

松山和尚の頃までは尹良権現別当職として、祭礼の時は神前で大般若経を転読し祭礼の執行にあたった。その後、堯翁院に安置されている位牌の前で転読するに過ぎなくなり、浪合神社との関係は疎遠となっていった。従って浪合神社の祭礼は社家が一手に引き受けるようになった。

しかし相直和尚の代になると、再び別当としての立場から祭礼への参加を主張したため、村役人が調停に入り、毎年正月は神主が鍵を預かり、2月から12月までは堯翁院が鍵を預かって御勤めをするなど浪合神社の運営についていくつかの取り決めが行われた。

境内

剣道の始祖の一人とされる慈念大和尚の顕彰碑がある。

平成29年(2017年)に篤志の信者からの寄進を受けて浪合星空観音を建立し今日に至っている。

寺宝

  • 尹良親王が墨書したとされる大般若波羅蜜多経の写経2巻 (毎年4月25日の大般若法要の時のみ公開)
  • 日本剣道の創始者のひとりとされる慈念大和尚の石碑および関連諸物
  • 初代青山家から贈られた幔幕[2]

平成24年(2012年)の客殿改築の際に、青山家から贈られた幔幕が発見された。大般若法要の本尊十六善神のもと、写経を行っている尹良親王の姿が描かれた掛軸と、太宰府天満宮認可の狩野氏の筆による菅原道真の掛軸である。

慈念と長福寺跡

慈念(念阿弥慈恩)は陸奥国相馬郡の出身で日本の剣道の創始者と知られている人物である。5歳の時に新田義貞に仕えた父親が妬まれて殺害されたため、乳母に抱かれて武蔵国今宿へ逃れ、後に時宗の本山である清浄光寺一遍上人の弟子となり念阿弥と称した。

その後、京都の鞍馬山や鎌倉の寿福寺、九州の寺を巡って剣術や兵法の修行を行った。故郷へ帰って還俗し相馬四郎義元と称した。

慈念が伝授した剣術は念流と呼ばれ、剣道の諸流の源であると云われている。

父の仇を討ち果たした後に家督を弟に譲って禅門に入り、慈念と改名して諸国を修行した。その奥儀を伝授された兵法者が多く、剣道の諸流は念流の影響を受け、「世上慈念」または「念和尚」とも呼ばれる。

晩年には浪合備前守の縁故を頼って来村して過し、長福寺を建立し摩利支天を本尊とし、応永15年(1408年)5月中旬に、その霊徳によって兵法の奥技に達したとされる。浪合で没し「念墓」と呼ばれる墓が残っている。

念流の武術は現在、群馬県高崎市真庭念流道場にて引き継がれ、数年に一度、創始者の墓前で演武会も開かれている。現在は、春秋に尹良親王を弔う祭りで村人が、慈念和尚を讃える念流太鼓を奉納している。

脚注

参考文献

関連リンク

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