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増賢

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増賢(ぞうけん、延久2年(1070年) - 元永元年5月5日(1118年))は、平安時代後期の天台宗寺門派の僧。園城寺の僧。三条天皇の曾孫にあたり、父は敦賢親王。静覚法印の弟子。権律師を経て四天王寺別当を務めた。宮廷における修法・祈祷にも活動し、『讃岐典侍日記』や藤原忠実の日記『殿暦』にその名が見える。

師 静覚
概要 増賢, 宗派 ...
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生涯

出自と園城寺入寺

延久2年(1070年)生まれ[1]。父は四品式部卿敦賢親王である。敦賢親王は小一条院敦明親王の子で、三条天皇の孫にあたるため、増賢は三条天皇の曾孫にあたる[2]。

『僧綱補任』は増賢について、

天台宗。園城寺。四品式部卿敦賀子。静覚法印入室弟子

と記す[3]。

ここにいう「四品式部卿敦賀」は、四品・式部卿であった敦賢親王を指すとみられる。また同書により、増賢が園城寺に属する天台僧で、静覚法印の入室弟子となったことが知られる。


権律師への補任

嘉承2年(1107年)5月23日、御修法の功績によって権律師に任ぜられた[4]。

『僧綱補任』には、

嘉承二年 権律師。五月廿三日。御修法労

とある。

現代語にすれば、「嘉承2年5月23日、御修法の功労により権律師に任ぜられた」となる。

増賢が僧官に補任された同年、堀河天皇は重病に陥った。天皇の最期を記した『讃岐典侍日記』には、病状が悪化した際に加持祈祷を行うため、園城寺の僧侶らが召されたことが記されている。

増誉僧正・頼基律師・増賢律師などめしにやりつつ

この時、増誉・頼基らとともに増賢も召されており、増賢が当時、宮廷において修法・加持祈祷を行う僧侶の一人として認識されていたことがうかがえる。

園城寺と宮廷での活動

天永2年(1111年)には園城寺の真如院別当に就任したとされる[5]。真如院は園城寺内に置かれていた院家の一つであり、『拾芥抄』にも、

真如院 園城寺内

と記されている[6]。

翌天永3年(1112年)8月21日には、関白藤原忠実の日記『殿暦』に増賢が現れる。同日、忠実は物忌のため外出せず、女房方の方違などを行っていたが、その記事中に、

宮律師増賢、来

とある[7]。

このことから、増賢が藤原忠実をはじめとする摂関家とも接触を有していたことが確認できる。

四天王寺別当

永久4年(1116年)、園城寺長吏などを歴任していた増誉が没すると、同年5月23日、増賢が四天王寺別当に補任された[8]。

四天王寺別当職はこれ以前には増誉が務めており、増賢はその後任にあたる。増賢没後には園城寺の高僧行尊が別当に就任した。

増賢が増誉の後を継いで四天王寺別当を務めたことは、11世紀末から12世紀初頭にかけて、園城寺の有力僧が四天王寺別当職を継承していた状況の一例でもある。

待賢門院璋子の童子との風聞

永久5年(1117年)、藤原忠実の日記『殿暦』には、のちの待賢門院藤原璋子をめぐる男女関係の風聞が記された。

忠実は同年、璋子と備後守藤原季通との関係を数度にわたって記しているが、11月19日条には、これとは別に増賢に仕えていた童子と璋子との関係についての風聞も記録している[9]。

ただし、『殿暦』が璋子の相手としているのは増賢本人ではなく増賢に属する童子である。この童子の実名・出自・その後の経歴は明らかでない。また、童子と璋子との関係を独立して裏付ける同時代史料も確認されていないため、史料から確実に確認できるのは、当時そのような風聞が藤原忠実の耳に入っていたことまでである。

死去

元永元年(1118年)5月5日に没した。享年49[10]。

東京大学史料編纂所編『大日本史料』第三編之二十は、同日の事蹟を集録した人物として「権律師増賢」を挙げている。

増賢の死後、同年5月29日に行尊が四天王寺別当に就任し、増賢の後任となった[11]。

系譜

敦賢親王は小一条院敦明親王と藤原頼宗女との間に生まれ、式部卿・四品に至った皇族である。このため増賢は皇統上、三条天皇の曾孫にあたった。

脚注

参考文献

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