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藤原璋子

鳥羽天皇中宮、崇徳天皇と後白河天皇の母 From Wikipedia, the free encyclopedia

藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、1101年〈康和3年〉- 1145年9月10日〈久安元年8月22日〉)は、日本の第74代天皇・鳥羽天皇の皇后(中宮)。崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。

皇后 永久6年1月26日(1118年2月18日)
(中宮)
院号宣下 天治元年11月24日(1124年12月31日)
誕生 康和3年(1101年)
崩御 久安元年8月22日(1145年9月10日)
山城国 京都 三条高倉第
概要 藤原 璋子, 第74代天皇后 ...
藤原 璋子
待賢門院像(法金剛院蔵)
第74代天皇后
皇后 永久6年1月26日(1118年2月18日)
(中宮)
待賢門院
院号宣下 天治元年11月24日(1124年12月31日)

誕生 康和3年(1101年)
崩御 久安元年8月22日(1145年9月10日)
山城国 京都 三条高倉第
陵所 花園西陵(京都市右京区)
諱 璋子
氏族 藤原氏(閑院流)
父親 実父:藤原公実
養父:白河法皇
母親 実母:藤原光子
養母:祇園女御
配偶者 鳥羽天皇
入内 永久5年12月13日(1118年1月6日)
子女 崇徳天皇
禧子内親王
通仁親王
君仁親王
統子内親王
後白河天皇
覚性法親王
身位 女御→皇后(中宮)
立后前位階 従三位
宮廷女房 待賢門院堀河
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系譜

閑院流藤原氏の出身。父は正二位行権大納言・藤原公実、母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。太政大臣・実行(三条家祖)は異母兄、権大納言・藤原季成は異母弟(息子・後白河天皇の妃・成子の父) 、権中納言・通季(西園寺家祖)、左大臣・実能(徳大寺家祖)、大炊御門経実室・公子(二条天皇の外祖母)らは同母兄姉。

略歴

幼少期と藤原忠通との縁談

康和3年(1101年)、藤原北家閑院流の権大納言藤原公実と藤原光子の娘として生まれた。幼少時から白河上皇のもとで養育されており、『中右記』長治2年(1105年)3月14日条には、大炊殿において白河上皇が「春宮大夫公実卿女子」の着袴を行わせたことが記されている[1]。嘉承2年(1107年)に実父公実を失った。

璋子については、のちに摂関家の嫡子藤原忠通との婚姻が構想された。天永2年(1111年)6月には、白河上皇と摂政藤原忠実との間で忠通の婚儀の日取りや婚儀所について具体的な協議が行われ、一時は同年7月21日を婚儀の日とすることまで決められたが、穢などを理由として延期された。その後も婚儀は成立せず、永久2年(1114年)にも再び忠通の婚姻が議題となっている[2][3]。

東京大学史料編纂所によれば、白河上皇はもともと、鳥羽天皇に忠実の娘泰子を、忠通に璋子を配する構想を持っていたが、いずれも実現しなかった[4]。

永久5年(1117年)9月27日、忠実は璋子が鳥羽天皇の女御として参入するとの情報を聞き、「件人本是内府可合給云々」と、もともと璋子が忠通と結婚する予定であったことを記している。この段階では、忠実は忠通との婚姻が成立しなかった理由を璋子の密通とは記していない[5]。

一方、翌10月10日以後になると、忠実は璋子について「奇怪有聞」と記し、翌11日には備後守藤原季通との関係についての風聞を書き留めた。ただし、同条で忠実自身がその情報について「実事とはなし難し」と留保しており、現存する『殿暦』の記事のみから、季通との関係が忠通との婚姻不成立の原因であったと断定することはできない[6]その後も忠実は同年11月19日、12月4日条などで璋子について厳しい評言を残している[7]。

季通や童子との密通疑惑

璋子は藤原季通や権律師増賢の童子との男女関係を噂されたことが知られる。二人の関係を直接伝える同時代史料としては、関白藤原忠実の日記『殿暦』がある。

永久5年(1117年)、忠実は同年10月11日条に、備後守であった季通が璋子と「盗通」したとの風聞を記している[8][9]。

件院姫君備後守季通盗通之云、世間人皆所知也
(かの院の姫君(璋子)は、備後守季通がひそかに通じたという。世間の人々が皆知っていることである)

忠実はその後も同月15日条に、

備後守季通通云々

と記し、11月19日条および12月4日条にも季通と璋子の関係について言及している[10]。すなわち、『殿暦』では一時的な記載ではなく、同年秋から冬にかけて複数回にわたり二人の関係が話題とされている。

また忠実は、璋子について同年12月4日条で

乱行人入内
(素行の乱れた人物が入内する)

と評しており、璋子の鳥羽天皇への入内そのものにも強い不快感を示している[11]。

ただし、これらの記事はいずれも忠実が得た風聞を記したものであり、季通と璋子の関係を独立して裏付ける別系統の同時代史料は確認されていない。また、『殿暦』10月11日条の記事も伝聞を示す「云」を用いており、忠実自身が直接二人の関係を目撃したものではない。このため、二人が実際に性的関係にあったことを確定的な史実とすることには慎重を要する。

一方で、季通と璋子の間に現実の接点が存在したことは確認できる。箏の相承を記した『秦箏相承血脈』によれば、季通は璋子に箏を伝授しており、二人は師弟関係にあった[12]。したがって、両者が面識を有したこと自体は確実である。

増賢の童子との風聞

忠実が記した璋子の異性関係の風聞は、季通だけではない。『殿暦』永久5年(1117年)11月19日条には、璋子が「宮律師増賢」の童子とも関係を持っているとの風聞が記されている[13]。

ここにいう増賢は園城寺の僧で、敦賢親王の子とされ、静覚法印の弟子となった。嘉承2年(1107年)5月23日に権律師に任ぜられている[14]。また、天永3年(1112年)8月21日の『殿暦』にも「宮律師増賢」が忠実のもとを訪れた記事があり、院政期の宮廷貴族社会と接点を有していた僧であった[15]。

季通の失脚との関係

季通は若くして白河院の近臣となり、音楽・和歌などにも優れ、当初は兄弟の中でも将来を嘱望された人物であった。しかし、その後の官歴は同母兄弟と著しい差を生じた。

季通の父藤原宗通の男子では、長兄信通が参議、次兄伊通が正二位太政大臣、弟の成通および重通がいずれも正二位大納言に昇ったのに対し、季通はついに公卿に列することなく、正四位で散位のまま生涯を終えたとされる[16]。

『尊卑分脈』は季通について、その昇進が止まった事情を簡潔に、

事ニ坐ス
( 「ある事件に連座した」あるいは「ある事によって罪を得た」)

と記している[17]。ただし、『尊卑分脈』はその「事」が何であったかを具体的には記していない。

歴史学者の角田文衞は、この「事」を璋子との関係とみなし、季通が璋子との件によって白河院の怒りを買ったために昇進を阻まれたと推定している[18]。国文学研究資料館の研究発表でも、季通が若くして白河院の側近となりながらその後官位の昇進を停止され、兄弟が相次いで公卿・大臣へ昇進する中で散位に終わったことを指摘したうえで、角田説を有力な解釈として紹介している[19]。

もっとも、季通が璋子との風聞が記録された直後にただちに罷免されたわけではない。永久5年(1117年)当時も季通は備後守であり、その後も任を継続して、元永2年(1119年)3月9日には、かつて璋子の婚約者であった内大臣藤原忠通が催した御遊に参加している[20]。同年7月13日にも忠通主催の歌合に出詠した[21]。備後守を退いたのは保安元年(1120年)正月であった。

その後、長承3年(1134年)の藤原顕輔家歌合、保延2年(1136年)の藤原頼長邸の楽会などには姿を見せており、宮廷社会から完全に排除されたわけではなかった。康治元年(1142年)には頼長から坊官賞を譲られて正四位に叙されている[22]。久安6年(1150年)頃には崇徳院の命による『久安百首』にも参加した。

したがって、史料から確実にいえるのは、季通が璋子との関係を噂されたこと、その後同母兄弟に比べて著しく昇進が停滞したこと、そして『尊卑分脈』が季通について「事ニ坐ス」と記していることまでである。「璋子との関係が原因となって白河院の怒りを買い、そのため公卿への昇進を阻まれた」とする説は、この三者を結び付けた有力な研究上の解釈であるが、同時代史料がその因果関係を直接記しているわけではない。

鳥羽天皇への入内

永久5年12月13日(1118年1月6日)、璋子は白河上皇を後見として鳥羽天皇に入内した。同月17日に女御宣下を受け、翌永久6年(元永元年、1118年)正月26日に立后されて中宮となった。権大納言を父とする女性の立后は当時として異例であり、白河上皇の強い後見のもとで実現したものであった[23]。

元永2年(1119年)5月28日、第一皇子顕仁親王(のちの崇徳天皇)を出産した。続いて保安3年(1122年)6月27日には第一皇女禧子内親王を産んだ[24]。

保安4年(1123年)正月28日、鳥羽天皇が顕仁親王に譲位し、顕仁が崇徳天皇として践祚した。璋子は在位する天皇の母となり、天治元年(1124年)11月24日には院号宣下を受けて待賢門院と称した[25]。

その後も鳥羽上皇との間に、天治元年(1124年)5月28日に通仁親王、天治2年(1125年)5月24日に君仁親王、大治元年(1126年)7月23日に統子内親王(のちの上西門院)、大治2年(1127年)9月11日に雅仁親王(のちの後白河天皇)、大治4年(1129年)閏7月20日に本仁親王(のちの覚性法親王)を産み、鳥羽天皇との間に5男2女をもうけた[26]。

通仁親王については、同時代史料に幼少時から視覚に障害があったことが記され、大治4年(1129年)閏7月10日に6歳で薨去した。君仁親王も幼少時から病弱で、後年の『台記』には身体に障害があったことが記されている[27]。

白河法皇の死と法金剛院

大治4年(1129年)7月7日、璋子を幼少時から養育してきた白河法皇が三条西殿で崩御した。この時、璋子は末子本仁親王を懐妊しており、鳥羽上皇とともに白河法皇の病床に伺候していた。『長秋記』によれば、白河法皇は自らの死による穢れが出産を控えた璋子に及ぶことを避けるため、鳥羽上皇と璋子に退出を求めた[28]。

白河法皇の死後、鳥羽上皇が院政の実権を担うようになった。一方、璋子は同年から仁和寺の南、旧天安寺の地に御願寺を造営する計画を進めた。京都市埋蔵文化財研究所によれば、待賢門院は源師時を遣わして候補地の地形などを調査させ、天安寺の指図なども参照したうえで造営地を選定したという。大治5年(1130年)10月に法金剛院が造営され、その後も北斗堂・三重塔・経蔵・南御堂・三昧堂などが順次建立され、寺域は拡張された[29]。

また、璋子は白河法皇・鳥羽上皇に伴って始めた熊野三山への参詣をその後も続けた。文化庁の国指定文化財等データベースでは、待賢門院の熊野参詣は13回に及んだとされる[30]。

鳥羽院政下

白河法皇の死後、鳥羽上皇は藤原忠実を再び政界に復帰させ、長承3年(1134年)には忠実の娘泰子を皇后に立てた。また、長承年間以後には藤原得子を寵愛するようになり、保延5年(1139年)8月17日、得子所生の体仁親王が皇太子となった。永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇は体仁親王に譲位し、近衛天皇が践祚した[31]。

近衛天皇の即位後、待賢門院の周辺では呪詛事件が問題となった。康治元年(1142年)正月には、待賢門院の判官代源盛行とその妻らが、「国母皇后」に対する呪詛に関与したとして処罰されたことが『本朝世紀』などに記されている[32]。ただし、現存する同時代史料は関係者の処罰を記しているものの、璋子本人が呪詛を命じたとは記していない。

同年2月26日、璋子は42歳で出家し、法名を真如法とした[33]。同条は、璋子がまだ老年ではない年齢で出家したことに触れ、これを悲しむ人々が多かったと記している。待賢門院に仕えた堀河らの女房も、この時に相次いで出家した[34]。

後世に成立した『古事談』には、璋子と白河法皇との間に関係があり、崇徳天皇は白河法皇の子であったという説話が収録されている[35]。しかし、この説話は璋子や白河法皇と同時代の記録ではなく、『中右記』『長秋記』『殿暦』などの同時代史料には、崇徳天皇を白河法皇の子とする記述は確認されない。そのため、少なくとも『古事談』の記事を根拠に、この説が当時すでに広く流布していたと断定することはできない。

晩年と死

天養2年(1145年)春頃には病状が悪化しており、『台記』4月8日条には、崇徳上皇が母の病を理由に待賢門院の御所へ移ったことが記されている。同年6月には延命を願う逆修も行われた[36]。

同年7月に元号が久安と改められ、久安元年8月22日(1145年9月10日)、璋子は三条高倉第で45歳で崩御した[37]。崇徳上皇は母の御所に伺候しており、鳥羽法皇も危篤の知らせを受けて三条高倉第へ赴いた。『台記』は、璋子の臨終に際して鳥羽法皇が自ら磬を打ち、「哭泣」し、群臣もこれに続いて哭したと記している[38]。

翌23日、璋子の遺骸は法金剛院に送られて葬られた。法金剛院旧境内の発掘調査報告でも、久安元年に待賢門院が三条高倉第で崩御し、法金剛院に葬送されたことが確認されている[39]。陵は京都市右京区花園扇野町の花園西陵に治定されている。

没後10年の久寿2年(1155年)7月、近衛天皇が崩御すると、璋子の四男雅仁親王が即位して後白河天皇となった。翌保元元年(1156年)の保元の乱では、璋子の長男である崇徳上皇と四男後白河天皇が、それぞれ対立する勢力の中心に置かれることとなった。

人物

同時代の日記や音楽・文学史料には、璋子の私生活、文化的嗜好、子女や近臣との関係をうかがわせる記事が比較的多く残されている。

文化・宗教活動

  • 大治4年(1129年)9月、璋子は御願寺建立のため源師時らに候補地を実見させた。『長秋記』9月12日条には、師時が璋子の命を受けて池田・天安寺付近を調査したこと、翌13日条には璋子から天安寺の指図二枚を渡され、造営地として適切か検討するよう命じられたことが記されている[40] 。京都市埋蔵文化財研究所も、待賢門院が師時に候補地を調査させ、旧天安寺の地に法金剛院を造営したことを紹介している[41]。
  • 大治5年(1130年)には法金剛院の庭園に林賢による滝石組が造られ、『長秋記』はその出来映えを「人力とは謂はず」と賞賛している[42]。さらに長承2年(1133年)9月14日、璋子は自ら滝を見物した後、徳大寺法眼静意を召し、滝をさらに「五、六尺許」高くするよう命じた[43]。法金剛院旧境内の調査でも、平安時代の滝石組が現存する重要な庭園遺構として確認されている[44]。
  • 『長秋記』元永2年(1119年)11月27日条によれば、中宮であった璋子は女房の中将君を介し、源師時に「源氏絵間紙」を調進するよう命じ、白河法皇からも図画を調進するよう命令があった[45]。東京大学史料編纂所は、この記事を「白河法皇と中宮藤原璋子による源師時への『源氏絵』調進依頼の記事」とし、『源氏物語絵巻』成立を考える上で重要な史料の一つに挙げている[46]。慶應義塾ミュージアム・コモンズも、この記録を文献上確認できる初期の「源氏絵」制作記事として紹介している[47]。
  • 箏の伝承系譜を記した『秦箏相承血脈』には、藤原季通から箏を伝授された人物の一人として待賢門院が記されている[48]。同書は国立国会図書館所蔵の『群書類従』にも収録されている[49]。
  • 待賢門院の熊野参詣は13回に及んだとされる。文化庁の国指定文化財等データベースでも、白河上皇・鳥羽上皇に続く院政期の熊野参詣者として待賢門院を挙げ、その参詣回数を13回としている[50]。

源師時との関係

  • 『長秋記』長承2年(1133年)6月7日条には、鳥羽上皇が待賢門院女房の三条局について「心頗る穏かならず」として常時の伺候を認めず、その所生の女王も里で養育させる一方、美濃局については人物が「尋常」であるとして、その所生の王子とともに女院の御所に置くことを認める意向を示したことが記されている。待賢門院はこの鳥羽上皇の意向について師時に相談している[51]。
  • 長承2年(1133年)、藤原忠実の娘泰子が鳥羽上皇のもとへ入ることが決まると、待賢門院は師時に対して、この事態自体は以前から予想していた旨を述べる一方、白河法皇の遺志が容易に破られたことへの感慨を語り、この話を外部に漏らさないよう求めたと『長秋記』に記されている[52]。
  • 同じころ、璋子は当時鳥羽上皇とともに滞在していた邸宅について、もともと藤原長実の邸宅であって上皇に献上されたものではなく、荒れていることなどを理由に長く留まりたくないと師時に語り、統子内親王のいる三条京極第へ宮たちと移る意向を示した[53]。

子女との関係

璋子は鳥羽天皇との間に5男2女をもうけた。同時代の日記には、子女の生育儀礼・病気・養育・進路などに璋子が直接関与した記事が数多く残されている。

崇徳天皇(顕仁親王)

  • 元永2年(1119年)5月28日の顕仁親王誕生について、『中右記』などは、母后である璋子自身が臍の緒を切り、乳付を行ったことを記している[54]。
  • 顕仁親王が崇徳天皇として即位すると、璋子は国母として朝覲行幸を受ける立場となった。長承3年(1134年)2月17日には、崇徳天皇が法勝寺に行幸し、鳥羽上皇・待賢門院・統子内親王らも同所に集まり、天皇と両院が対面している[55]。
  • 天養2年(1145年)4月、璋子が病に伏すと、崇徳上皇は母の病を理由としてその御所へ移ったことが『台記』に記されている[56]。

禧子内親王

  • 大治年間、禧子は待賢門院・鳥羽上皇の御所と行動を共にすることが多く、大治2年(1127年)10月29日には待賢門院に伴われて鳥羽へ御幸している[57]。長承元年(1132年)2月9日には待賢門院とともに参内し、同年11月には母とともに内裏で五節を見物している[58]。
  • 大治4年(1129年)、白河法皇崩御直後に本仁親王が誕生した際、待賢門院は産後であり鳥羽上皇も服喪中であったため、一品宮禧子が本仁親王の生育儀礼に関与し、餅を含ませる役を務めた[59]。
  • 長承元年(1132年)11月25日、禧子が賀茂斎院に卜定されて初斎院へ移る際、鳥羽上皇と待賢門院はその行列を見物した[60]。
  • 長承2年(1133年)8月28日、待賢門院は源師時を召し、禧子が以前からの腹病に加えて新たな病を発し、腹部・顔・手足が腫れ、飲食も困難であること、陰陽師や医師が重い見立てを示していることなどを詳しく語った[61]。
  • 同年9月2日、禧子は病のため斎院を退下して藤原盛重邸へ移った。源師時が訪れた際、鳥羽上皇と待賢門院はいずれも禧子のもとにおり、禧子は「両院御中」に臥していたと記されている[62]。9月4日には禧子と待賢門院がともに三条京極第へ移り、鳥羽上皇も同所へ赴いた[63]。
  • 同年9月9日、璋子は源師時を御簾内へ召し入れ、病床の禧子と妹の統子内親王を見せた。師時は、自分は両内親王の近習でも外戚でもないが、女院と昵懇であるためこのような命を受けたと記している[64]。
  • 9月以降、三条京極第や白河泉殿などで五壇法・孔雀経法その他の祈祷が行われ、10月1日には待賢門院の御所で普賢延命法が始められた[65]。
  • 禧子は同年10月10日に薨去したが、翌長承3年10月10日には待賢門院によって法華経供養が営まれ、多くの布施が行われた[66]。

通仁親王

  • 『中右記』は、通仁について幼少時から視覚に障害があったことを記し、そのため「年来、万万」の祈願が行われていたとする[67]。
  • 三条西殿では西対代廊南面が通仁の居所とされ、鳥羽上皇・待賢門院の身近で養育された[68]。
  • 大治4年(1129年)、通仁は痢病を患い、乳母方へ移って療養した。その間も祈祷が続けられたが、同年閏7月10日に薨去した[69]。
  • 『永昌記』によれば、鳥羽上皇には通仁の死が奏された一方、末子本仁親王の出産を目前にしていた待賢門院には知らせが秘された。『中右記』も「強いて風聞せず、世人知らず」と記している[70]。

君仁親王

  • 天治2年(1125年)6月1日、生後間もない君仁が乳を飲めず、意識を失うほどの危篤状態となった。大僧正行尊が長時間加持を続けたところ容体が回復し、待賢門院はその霊験への謝礼として自らの袿を行尊に与えるよう命じ、鳥羽上皇がその装束を自ら行尊へ手渡した[71]。
  • 大治2年(1127年)4月26日、君仁は不例のため日吉社参詣を延期し、5月15日にようやく参詣した[72]。
  • 大治5年(1130年)7月10日に大炊御門万里小路第が焼亡した際、君仁は兄弟らとともに避難し、いったん鳥羽上皇・待賢門院のいる白河北殿へ移った後、白河泉殿へ移っている[73]。
  • 保延6年(1140年)8月9日に出家し、康治2年(1143年)10月18日に薨去した[74]。

統子内親王

  • 大治2年(1127年)4月、恂子と呼ばれていた統子が賀茂斎院に卜定されるにあたり、待賢門院は娘に付き添って初斎院御所へ赴いた[75]。
  • 長承元年(1132年)に退下した後、統子は待賢門院・鳥羽上皇の行事に再び同行するようになった。長承3年(1134年)2月17日には、両院とともに法勝寺へ赴き、崇徳天皇とも対面している[76]。
  • 長承2年(1133年)9月9日、待賢門院は源師時を御簾内へ召して禧子と統子を見せた。師時は統子について「端正美麗」と評している[77]。
  • 長承3年12月5日、統子は雅仁親王・本仁親王とともに太皇太后宮令子内親王の二条堀河第へ赴き、「御髪削」の儀を受けた。鳥羽上皇と待賢門院も同行し、儀式後は一同で長く対面している[78]。
  • 統子は待賢門院没後にその所領を伝領し、母の経済的・宗教的基盤の主要な継承者となった[79]。

後白河天皇(雅仁親王)

  • 大治2年(1127年)9月11日の雅仁親王誕生について、『九民記』などは母儀である待賢門院が臍の緒を切り、乳付を行ったと記している[80]。
  • 雅仁は弟本仁や姉統子とともに待賢門院の周辺で生活し、長承3年(1134年)12月5日の御髪削にも、待賢門院・鳥羽上皇とともに参加している[81]。
  • 後白河院自身の『梁塵秘抄口伝集』巻第十によれば、雅仁親王は待賢門院に仕えていた今様の名手・神崎のかねを召して昼夜稽古していた。これを知った璋子は、あまりに続けて稽古することをたしなめつつも、自身もかねの歌を聞きたいとして、親王と「夜まぜ」、すなわち一夜交替でかねを召すことにした[82]。神崎かねについては『朝日日本歴史人物事典』も、待賢門院から局を与えられ、雅仁親王が一夜おきに召して今様を学んだことを紹介している[83]。
  • 『梁塵秘抄口伝集』で璋子は稽古のし過ぎを注意しているが、かねを親王から遠ざけるのではなく、自分と親王が交替で召すという方法を取った。後白河院自身が母の言葉として記録した、璋子の肉声を比較的具体的に伝える記事である[84]。
  • 後白河院は『梁塵秘抄口伝集』巻第十で、久安元年(1145年)8月22日に待賢門院が亡くなった際、自分には「日月の光を失ひたる」ように感じられ、深い悲しみに沈んだ旨を回想している[85]。

本仁親王(覚性法親王)

  • 大治4年(1129年)の生育儀礼では、一品宮禧子が両親に代わって本仁に餅を含ませる役を務めた[86]。
  • 長承3年(1134年)12月6日条の『長秋記』には、待賢門院と仁和寺御室覚法との間で、本仁を仁和寺へ入室させるための交渉が行われたことが記されている。覚法が皇后藤原泰子側に与して自分に背くことを璋子が懸念したため、璋子は覚法に誓言文を差し出すよう求めた。覚法はこれを了承し、本仁に法文・聖教・所領・堂舎などを譲る意向を示した[87]。
  • 同条では、璋子が覚法に対し終身自分を裏切らない旨の誓約を求めている。本仁の宗教的進路を単に寺院側へ委ねるのではなく、師僧との後見関係まで確認していたことが分かる。佐伯智広は、鳥羽上皇を介さず待賢門院と覚法の間で交渉が進められていることから、「覚性の入寺があくまでも待賢門院の主導で行われている」と論じている[88]。
  • 本仁の入寺当日には鳥羽上皇と待賢門院がともに仁和寺へ御幸した。[89] 佐伯は、鳥羽上皇もこれを承認していた一方、入室そのものは待賢門院の意思から始まったものとみている[90]。
  • 佐伯は、待賢門院が仁和寺近くに法金剛院を建立し、雅仁・本仁を伴って同寺へ御幸していたことなどから、本仁を仁和寺へ入れる目的の一つとして、白河法皇や待賢門院自身の将来の追善を担わせる意図があった可能性を指摘している[91]。

晩年・葬送

  • 保延5年(1139年)、法金剛院に法華三昧堂が建立された。建築史研究では、久安元年(1145年)の璋子の死後、遺骸が同堂下の石穴に葬られたことから、この三昧堂が璋子自身の墓所として生前から予定されていたと考えられている[92]。
  • 『台記』によれば、璋子の遺骸は火葬されず、法金剛院三昧堂下の石穴に納められた。葬送当日は仁和寺方面が忌むべき方角に当たっていたが、「遺言」によって葬送が実施された[93]。後世の建春門院の埋葬にも待賢門院の例が参照されており、院政期の高位女性の葬制に一つの先例を残した[94]。
  • 久安元年(1145年)8月22日、璋子が危篤となると、鳥羽法皇も三条高倉第へ赴いた。『台記』は、璋子の臨終に際して鳥羽法皇が自ら磬を打ち「哭泣」し、群臣も哭したと記録している[95]。
  • 『台記』久安元年8月27日条によれば、鳥羽法皇は待賢門院の死に際し黒色の喪服を着用した。また同年9月19日条には、璋子の異母兄藤原実行が喪服を着ていないことを鳥羽法皇が咎め、「不忠之臣」と評したとの伝聞が記録されている[96]。

備考

  • 京都市右京区花園扇野町に現存する法金剛院は、平安前期、右大臣・清原夏野の山荘だったものを死後に双丘寺とし、天安2年(858年)、文徳天皇の勅願によって天安寺が建立されたが、その後は荒廃し、大治5年(1130年)になって璋子が復興したものである。璋子はここで晩年を過ごし、今も、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠る。絶代の美貌を謳われ、信仰心も深かった璋子を慕い、法金剛院を訪れる人々の中には、かの歌僧・西行もいたという。
  • 角田文衛は『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』において、『殿暦』永久5年10月11日・11月19日両条の記述より、璋子は白河院側近の藤原季通(権大納言藤原宗通の子)と密通していたとする説を唱えている。海野泰男も『今鏡』(「ふぢなみ」下巻「弓の音」章)の中で兄弟の中で季通だけが上達部になれなかった理由として「色めき過し給へりけるにや」と記しているのは、暗にそうしたことがあったのを指しているのではないかとして、角田説を肯定している[97]。
  • 璋子に仕えて出家の供をした待賢門院堀河は、『百人一首』に歌を採られるなど、歌人として名高い。
  • 璋子は円勝寺・法金剛院など自らが建てた御願寺のために多くの荘園を集積し、初めて「女院領」を形成した女院となった。その所領は崇徳上皇に継承され、保元の乱による崇徳上皇の配流後はその妹である統子内親王(上西門院)に継承された(上西門院領)。鎌倉時代には姪にあたる後白河法皇の皇女・覲子内親王(宣陽門院)に継承されることになる(宣陽門院領)[98]。
  • 近年になって、樋口健太郎は藤原璋子の入内は、鳥羽天皇の後見役であったものの薬子の変以来の太上天皇の内裏立入を禁じた不文律によって直接天皇を補佐することが出来ない白河法皇が、自分と天皇のパイプ役として宮廷に送り込んだとする説を提唱している。この説によれば、璋子がたびたび法皇と会っていたのは政治目的によるもので、『古事談』が伝えるような男女関係によるものではないとする。また、実父が既に亡くなっている璋子が生んだ崇徳天皇の外祖父は養父の白河法皇になるということを意味していた。なお、これによってそれまで白河法皇と鳥羽天皇のパイプ役を担っていた藤原忠実の面目は失われ、藤原璋子との政治的競合の中で忠実の関白失脚に至る「保安元年の政変」が発生したとしている(樋口はこの政変の黒幕に璋子がいた可能性があるとしている)[99]。

主な女房

関連作品

テレビドラマ

脚注

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