大久保領家
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河川
さいたま市桜区北部の沖積平野(荒川低地)に位置する。北で神田、東で上大久保、南で下大久保、西南で上大久保の飛地、西で五関と隣接する。西辺を鴨川が流れる。また、南辺から東辺にかけて鴨川の支流である作田排水路が流れる。この作田排水路は一部暗渠化されている。地区の南部および東部の境界を古入間川が流れていて[4]、その名残が自然堤防の存在や道路の線形に見て取れる。地区の南方の羽根倉橋周辺に5つの飛地がある。内、荒川河川敷の飛地は入会地[5]由来である。地内は北西端に僅かに残る市街化調整区域を除き市街化区域[6]で、大泉院通りを境に南側が第一種住居地域、北側が第二種中高層住居専用地域である。市街化調整区域内もほぼ住宅地で占められている。
地価
住宅地の地価は2015年(平成27年)1月1日に公表された公示地価によれば大久保領家字中作田563番32外の地点で13万5000円/m2となっている[7]。
歴史
古代には足立郡の郡衙があったと推定されている。 江戸期は武蔵国足立郡植田谷領に属する領家村であった[5]。発足時は幕府領で、正保年間に一時的に旗本朝岡氏が知行の時期があった[5]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では151石余、『元禄郷帳』では156石余、『天保郷帳』では187石余。化政期の戸数は50軒余で、村の規模は東西7町余、南北6町余であった[5][8]。 幕末時点では足立郡領家村であった。明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、代官大竹左馬太郎支配所が管轄する幕府領であった[9]。 1869年(明治2年)に成立した大宮県や浦和県の時期を経て1871年(明治4年)の第1次府県統合により埼玉県の管轄となり、1879年(明治12年)の郡区町村編制法により領家村は北足立郡に属したが、郡内に同名の村が複数あったため通称として植田谷領を冠称した。1889年(明治22年)4月1日、領家村は大久保村へ合併し、大久保村の大字領家となり、1955年(昭和30年)の大久保村の浦和市への合併後は村名の大久保を冠称した[5]。2001年(平成13年)5月1日に浦和市が大宮市・与野市と合併しさいたま市となった際にさいたま市に属し、2003年(平成15年)4月1日にさいたま市に9つの行政区が発足した際に桜区に属している。
地名の由来
領家村に存在していた小字
- 神作田[10]
- 中作田
- 方町
- 西角
- 道場
- 川原
- 不作田
- 通前
- 広谷
- 沼尻
- 沼
- 大砂
- 千田切
- 天神前
- 円蔵寺
世帯数と人口
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[11]。
| 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|
| 全域 | さいたま市立大久保東小学校 | さいたま市立上大久保中学校 |
交通
地域
寺社
文化財
- 大久保の大ケヤキ - 県指定天然記念物。日枝神社の参道にある幹回り9.4 m、高さ20 mの県内最大のケヤキの神木。八百比丘尼が植樹したという伝承が残されている[13][14]。
- 薬師堂のヒイラギ - 旧浦和市指定天然記念物。幹回り1.7 m、高さ9 m[15]の雌株である。
- 大久保領家遺跡 - 大泉院の南西に位置する弥生時代から中世に至る複合遺跡。1985年(昭和60年)以降数回の発掘調査が行われ、方形周溝墓、弥生時代後期・古墳時代前期・平安時代の竪穴建物跡、奈良時代の瓦、中世の輸入陶磁器(青磁)などが発見された。足立郡衙と推定されている。
- 春日氏一族の墓(大泉院内)
公園・緑地
- 大久保領家公園
- 大久保領家川原児童公園
- 大久保領家ケヤキ公園
- 下作田公園
- 西角公園
施設
- さいたま市立大久保東小学校
- 浦和こばと幼稚園
- さいたま市立大久保保育園
- 大久保領家西地区自治会館
- 大久保東公民館
- 大久保領家自治会館
- 埼玉県営大久保団地
- 埼玉県警察浦和大久保待機宿舎
- レッズランド(一部) - 飛地にある