大内楽所

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大内楽所(おおうちがくそ)は、雅楽を伝承した宮廷所属楽人の系統であり、三方楽所のうちの京都方を指す名称である[1][2]。京方、北京方とも呼ばれ、多家・山井家・安倍家・豊家の4家系から成った[1]。歴史的には、旧来の宮廷所属楽人の流れを引く系統として、近世においても京都方の中心を占め、南都方・天王寺方とともに三方楽所を構成した[1][3]

大内楽所は、旧来の宮廷所属楽人の系統を示す名称である[1]。平安中期ごろには、宮廷の式典楽に従事する楽所という組織が形成され、世襲により伝承された[1]。その中心を担ったのが多家・山井家・安倍家・豊家の四家であり、各家は神楽・笙・篳篥・笛などの家の芸を継承した[1]

しかし、大内楽所は古代以来そのまま不変の形で続いたのではない。応仁の乱後、朝廷の楽事運営は大きく揺らぎ、南都・天王寺の楽人も参入するようになった。こうした変動のなかで、16世紀後期から17世紀初頭にかけて、京都方・南都方・天王寺方から成る三方楽所の枠組みが形成され、その中で大内楽所は京都方、すなわち旧来の宮廷所属楽人の系統として位置づけられた[4][3]

山田淳平は、近世三方楽所を単なる三地域の並列的集合ではなく、朝廷・幕府・社寺との関係の中で再編された複合的な楽人秩序として捉えている[5]。この観点からみると、大内楽所は三方楽所の一方であると同時に、その中核に位置する京都方として理解されるべきである。

歴史

前史

大内楽所の母体となったのは、宮廷に属する楽人層であった[1]。これらの楽人は、神楽などの歌物、管楽器打楽器など多岐にわたる専門技量を父子相伝で伝えた[1]。多家の神楽、豊家の笙、山井家の笛、安倍家の篳篥は、とくに家の芸として知られた[1]

雅楽の制度的前史としては、大宝令のもとで雅楽寮が置かれ、唐楽高麗楽百済楽新羅楽などの外来楽舞が管掌された。平安遷都後、雅楽寮も京都へ移り、雅楽は右方高麗楽・左方唐楽を軸とする形で再編された。こうした古代・中世の制度的展開のなかで、京都の宮廷所属楽人の系譜が形成され、のちに大内楽所と呼ばれる系統へつながった[1][6]

中世以前の大規模な宮廷行事では、京都方の楽人が右舞を担当し、奈良の楽人が左舞を受け持つ慣習があった[1]。ただし、山田によれば、中世後期には宮廷の楽事そのものが安定していたとは言い難く、応仁の乱後の朝廷では京楽人二方による奏演体制が続いていた一方で、南都楽人・天王寺楽人の参入余地も生じていた[6]

応仁の乱後と三方楽所の形成

応仁の乱などの戦乱により、宮廷雅楽の伝承は大きな打撃を受けた[1]。その後、中世末から近世初頭にかけて、京都方・南都方・天王寺方の三方楽所が整えられ、宮廷における雅楽伝承の体制が再編された[4][3]

山田は、天正期における朝廷の楽人編成の不安定化と、それにともなう南都楽人・天王寺楽人の参入を重視している[7]。このなかで京都方は、旧来の宮廷所属楽人の系統として、依然として朝廷側の中心に位置していた。三方楽所の成立は、京都方が単純に南都方・天王寺方と並列化したというより、京都方を核としながら外部の楽人を取り込み、楽事運営を維持する体制が形成された過程として理解できる[8]

また、天正年間の奏楽記録では、京都方の楽人が他方より多数を占める場面が確認される。これは、近世初頭においても朝廷楽事の基軸が京都方にあったことを示唆する[9]

近世における展開

大内楽所は、京都方として宮中儀礼や禁裏御用に最も密接に関与した。山田によれば、近世三方楽所の編成には「一方楽所」「二方楽所」「三方楽所」があり、京都方はしばしばその基軸となっていた[10]。このことは、大内楽所が三方楽所の一方でありながら、実際の楽事運営においては中心的な位置を占めていたことを示す。

また、構造図としては、大内楽人が独立した大きな構成単位を成し、伝授・参朝・楽家相伝の中心に位置していることが示されている[11]。山田はさらに、京都方を単なる「一地域」ではなく、「在官」性を強く帯びた楽人の集団として捉えており、在官楽人・在京楽人・他方との兼帯関係などを含む、より複雑な人的構成を指摘している[12]

このように大内楽所は、四家の家職による固定的な集団というだけではなく、近世の公的楽人秩序の中で再編され続けた動的な組織でもあった。

三方楽所における位置

大内楽所は、三方楽所の中で旧来の宮廷所属楽派を表す名称である[1]。南都方や天王寺方がそれぞれ社寺に基盤を持っていたのに対し、大内楽所は宮中との結びつきが最も強い系統であった[1]。このため、三方楽所の中でも、宮廷儀礼の中心に最も近い位置を占めていたといえる。

近世三方楽所の内部序列や職掌の上で、京都方は旧来の朝廷楽人として中心的役割を担っていたと考えられる[13]。また、名簿分析や編成の実態からは、京都方の楽人が他方に比して高い比重を占める時期があり、宮廷楽事の運営においても中心であったことがうかがえる[14]

構成

大内楽所は、多家・山井家・安倍家・豊家の4家系から成った[1]。各家は、それぞれ特定の家の芸を伝承し、歌物や管楽器などの分野で専門的役割を担った[1]。こうした家職的構造は、明治以降の宮内庁楽部にも三方楽所以来の伝統として受け継がれた[1]

ただし、山田によれば、近世の京都方は単純な四家の固定的集合ではなく、在官楽人、在京楽人、他方との兼帯関係などを含む、より複雑な人的構成を持っていた[12]。また、三方楽所全体の名簿分析からは、京都方の楽人が他方に比して高い比重を占める時期があり、宮廷楽事の運営においても中心的であったことがうかがえる[13]

近世における活動

大内楽所は、宮中儀礼や禁裏御用に最も密接に関与した京都方として、近世雅楽の運営において中核的役割を担った[1][15]。その活動は宮廷儀礼にとどまらず、豊国社祭祀など近世の新たな政治的・宗教的空間においても重要であった[8]

また、山田は、近世京都における大規模祭礼や社寺の楽事においても、京都方が三方楽所の中心として活動したことを論じている[15]。このことは、大内楽所が単に宮中内部に閉じた楽所ではなく、近世の都市・社寺・政治秩序と接続する楽人集団であったことを示している。

「楽人領の運営」「地下官人的な性格」「家行・居当」といった観点を大内楽所に引き寄せてみると、京都方の楽人もまた、家と生活基盤に支えられた近世的楽人秩序の一部であったことが分かる[16]

明治維新と再編

明治初年、皇居が東京へ移ると、宮中での奏楽のため新たに雅楽局が設置され、三方楽所と紅葉山楽人が一同に集められた[17]。これにより、旧来の大内楽所も独立した楽所としてのあり方を失い、他方系統とともに近代国家の楽制の中に再編された[17]

この再編は、単に大内楽所が消滅したというだけでなく、京都方・南都方・天王寺方という近世的楽人秩序が国家の制度の中に再配置されたことを意味する。京都方は三方楽所の中核であったため、その人的・技芸的基盤は新設の雅楽局にも強く引き継がれたと考えられる[15]。その後、曲目や奏法の統一が進められ、明治撰定譜が編纂された[17]

後世への継承

京都御所一般公開における雅楽の演奏。大内楽所は近世日本において雅楽伝承の中核を担った。

大内楽所そのものは近代の制度改革の中で消滅したが、その伝統は宮内庁式部職楽部に継承された[1][17]。また、京都市の資料によれば、京都方の流れをくむ平安雅楽会は、恩賜財団平安義会を母体として大正5年に創立され、御所に属した宮廷音楽の伝承を継ぐ団体として活動している[4]

このように、大内楽所の後世への継承には二つの方向があった。一つは、雅楽局から宮内省宮内庁へとつながる近代宮廷雅楽制度への継承であり、もう一つは、京都において旧京都方の伝統を意識しつつ活動する民間・半公的団体への継承である。山田の議論を踏まえるならば、大内楽所は単なる旧称ではなく、近世から近代への雅楽制度の接続点として理解することができる[15]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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