天王寺楽所
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天王寺楽所は、四天王寺における法会・祭礼の奏楽・奏舞を基盤とする雅楽伝承組織である[6]。近世には、京都方・南都方とともに三方楽所を形成し、朝廷儀式や将軍家法会にも参仕した[1]。一方で、四天王寺の法要には基本的に天王寺楽所のみが参勤しており、天王寺楽所は三方楽所の一翼であると同時に、四天王寺と独自の関係を持つ楽所でもあった[6]。すなわち、その特色は、公的儀礼に参仕する三方楽所の一方であることと、四天王寺の法会・祭礼に根ざした固有の伝承基盤を持つことの両面にあった。
また、近世の天王寺楽所は、四天王寺奉仕を基盤としつつも、朝廷の楽事に参与することで、京都方・南都方と並ぶ近世雅楽伝承の中核的担い手へと位置づけられていった[3][7]。その内部には、四天王寺周辺に居住して寺院法会に奉仕する楽人と、京都に在住して朝廷の楽事に参与する楽人が併存していたとみられ、在所性と在京性の両面を持つ楽人集団であった[8][7]。
歴史

起源と成立
天王寺楽所の起源について、現行の継承団体である雅亮会は、聖徳太子が外来音楽をもって三宝を供養するよう命じて以来、四天王寺に置かれたと伝えている[9]。一方、研究上は、天王寺楽所が早くから四天王寺における楽舞伝承を担っていたことは認められるものの、朝廷への継続的な参勤は近世以前には必ずしも明確ではないとされる[1]。
雅楽そのものの制度的前史としては、大宝令のもとで雅楽寮が置かれ、唐楽・高麗楽・百済楽・新羅楽などの外来楽舞が管掌されたとされる。さらに平安遷都後には雅楽寮も京都へ移り、雅楽は左方唐楽・右方高麗楽を軸とする形で再編された。このような古代・中世の制度的再編を前提として、のちに京都・南都・天王寺における伝承拠点が形成された[3]。
また、応仁の乱後に京都が荒廃すると、宮廷の楽人も各地に分散し、京都・南都・天王寺の三方の楽人がそれぞれの地で伝承を維持したと説明される。こうした分散と再編の過程が、近世に「三方楽所」と呼ばれる伝承構造の形成につながったとみられる[3]。
山崎竜洋は、応仁の乱後の朝廷では規模を縮小しつつも京楽人二方による奏演体制が存続していた一方、南都楽人には住侍人の助力を仰ぐなど不安定な面があり、天王寺楽人についても地方での奏演活動は確認できるものの、朝廷との継続的関係が明瞭になるのは天正期以降であると整理している[1]。『言経卿記』天正7年(1579年)6月5日条には、禁中御楽に天王寺楽人の東業行・蘭広・岡公久の三人が参加したことが見え、少なくともこの頃までに天王寺楽人が朝廷の楽事に参入していたことが確認できる[1]。このことから、天王寺楽所は四天王寺の法会に奉仕する在地的楽所としての性格を持ちながら、天正年間に朝廷側の楽人秩序へ入り込み、京都方・南都方と並ぶ三方楽所の一翼として位置づけられるようになったと考えられる[3]。
四天王寺との関係
天王寺楽所は、四天王寺と深い関係を有していた[6]。四天王寺の法要にはごく一部の例外を除いて天王寺楽所の楽人しか参勤しておらず、この関係は三方楽所として組織される以前から存在していた[6]。したがって、天王寺楽所は、四天王寺に対して役人的な性格を持つ存在であり、身分的・経済的な庇護も同寺から受けていたとみられる[6]。
この点で天王寺楽所は、三方楽所の一角として朝廷・公的儀礼に参仕するだけでなく、四天王寺という特定寺院との継続的関係の上に成り立つ楽所でもあった。四天王寺法会への奉仕は、天王寺楽所の独自性を示す重要な要素である。
三方楽所の一翼として
近世の天王寺楽所は、三方楽所の一つとして朝廷儀式や将軍家法会に参仕した[1]。近世の楽人集団の経済基盤は、江戸幕府からの朱印地配当と朝廷からの御扶持という二重構造の上に成り立っていた[10]。また、天王寺楽所の内部も一様ではなく、四天王寺近辺に居住する楽人と京都在住の楽人などから構成されていた[8]。
天王寺楽人の朝廷参入の背景には、永禄末から天正初年にかけての朝廷側楽人編成の不安定化があったとみられる。京都楽人の当主死亡や南都楽人の不足により、朝廷における楽事の運用には不安定さが生じており、そのなかで南都楽人・天王寺楽人が呼び出され、奏楽に参与する機会が増えたと考えられる[1]。したがって、天王寺楽所の朝廷参入は、四天王寺側の伝承が外部へ拡大したというだけでなく、朝廷が楽事維持のために外部の楽人を組み込んでいった過程の一部でもあった[3]。
また、天正年間以降の天王寺楽所には、四天王寺周辺に居住して寺院法会に奉仕する楽人と、京都に在住して朝廷の楽事に参与する楽人とが併存していたとみられる。天正年間には岡公久に下御所周辺の家屋敷が与えられ、蘭広・東義也らにも在京の様子が見えることから、天王寺楽所の内部には在京者と在所者の分化が生じていたことがうかがえる[8]。このことは、天王寺楽所が四天王寺専属の楽所にとどまらず、近世の公的楽人秩序の中に組み込まれた複合的集団であったことを示している[7]。
さらに山田淳平は、近世三方楽所の組織構造を検討するなかで、一方楽所・二方楽所・三方楽所という可変的編成が存在したこと、また三方楽所の外にも楽を担う者が存在したことを指摘している[7]。この観点からみても、天王寺楽所は固定的に孤立した集団ではなく、四天王寺奉仕を基盤としながら、京都方・南都方との関係のなかで編成される近世的楽人秩序の一部であったと理解できる。
明治維新と再編
明治維新期の三方楽所は、明治初年にはなお比較的安定した立場を保っていたが、明治3年(1870年)11月、三方楽所を支配していた楽奉行四辻家の職務が停止され、新たに太政官内に雅楽局が設置された[2]。この再編は、京都・南都・天王寺の旧三方楽所の楽人を新政府のもとで再組織するものであり、旧来の楽所組織は大きく変化した。
維新期には天王寺方の楽人も宮中警衛や太政官代詰などに動員されていた[11]。したがって、天王寺楽所の再編は、四天王寺における伝承組織の変化であると同時に、旧三方楽所全体の国家的再編の一部でもあった。
近代以降の継承
雅亮会の公式説明によれば、三方楽所は明治維新の際にいったん廃絶し、天王寺舞楽の伝統も途絶えかけたが、これを憂えた民間有志が明治17年(1884年)に「聖霊会」伝承グループとして雅亮会を結成した[4]。さらに明治26年(1893年)には初代会長小野樟蔭のもとで会則を整備し、天王寺舞楽の伝承団体としての基盤を固めた[4]。
現在は、天王寺舞楽協会の推薦に基づき、四天王寺から演奏時に「天王寺楽所」と名乗ることを認められ、「天王寺楽所 雅亮会」として天王寺舞楽および天王寺楽所の歴史を伝承している[4]。また、令和6年(2024年)1月には一般社団法人雅亮会となった[4][5]。