雅楽寮
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
前史
『日本書紀』の允恭天皇崩御の記事には、新羅が崩御を悼んで派遣した使者に楽人が含まれていたことが見え、朝鮮半島三国(新羅・百済・高句麗)からの音楽が早い時期から伝来していたと推定されている[3]。また、持統天皇元年(687年)正月丙寅条には「楽官」と呼ばれる官司が登場し、雅楽寮の前身であったとみられている[4]。
外来楽舞の伝来はより古くさかのぼる。宮内庁三の丸尚蔵館は『雅楽―伝統とその意匠美』の中で、允恭天皇崩御時に新羅の楽人が渡来したことを、日本における外来楽舞の本格的演奏の古い例として挙げている[5]。また、欽明天皇15年(554年)には新羅から楽人四名が来朝し、推古天皇20年(612年)には百済人の味摩之が来朝して伎楽を伝え、さらに天武天皇12年(683年)には「三国楽」が飛鳥浄御原宮で演奏されたとされる[5]。笠置侃一も、味摩之の伝来と奈良時代の大規模仏教法会における楽舞の展開を挙げ、朝廷儀礼と仏教儀礼の双方において外来楽舞の受容が進んでいたことを指摘している[6]。
さらに、宮内庁三の丸尚蔵館は、天武天皇4年(675年)に楽人が子弟へ歌唱・楽器・舞の伎芸を伝えるよう命じる詔が出されたことを挙げ、ここから音楽と舞踊を代々専門とする家々が現れ始めた可能性を示している[7]。
設置と職掌
701年に大宝律令が制定され、雅楽寮は朝廷の音楽を司る役所として設けられた。様々な公的行事で雅楽を演奏すること、また演奏者を養成することがその職務である。演奏者として歌師・舞師・笛師・楽師が設置された。このうち前三者は倭楽(在来音楽)を、後者は外来音楽を担当し、後者は主に渡来人系の人々が任じられた。楽師は令制では唐・新羅・高麗(高句麗)・百済および呉楽である伎楽・腰鼓に分かれてそれぞれの音楽を担当した。また、笛師の下には笛職人である笛工が付属した。
笠置によれば、大宝令下の雅楽寮には歌人・歌師・舞師・笛師・楽師などが置かれ、唐楽・高麗楽・百済楽・新羅楽など複数の系統の楽舞が扱われた[8]。これらの楽舞は朝廷の儀礼のみならず、仏教寺院や対外交流の場とも関わりながら伝承された[8]。
また、宮内庁三の丸尚蔵館は、発足当初の雅楽寮について、日本古来の歌舞を担当する側が歌師4人・歌人40人・歌女100人・舞師4人など計264人、外来楽舞を担当する側が唐楽師・高麗楽師など計147人で、官人等を含めると450人を超え、500人近くに達する大組織であったとしている[7]。こうした規模は、雅楽が当時の国家儀礼においていかに重視されていたかを示すものとされる[7]。
大宝2年(702年)には『続日本紀』に「五常太平楽」の奏上が見え、奈良時代にも外来楽舞の伝来は続いた[7]。神亀4年(727年)には歌舞所が置かれ、日本古来の歌舞である神楽歌・東遊・久米歌などは雅楽寮から歌舞所の管轄へ移された。歌舞所はのちの大歌所につながる[9]。
奈良時代の展開
奈良時代には、雅楽寮の管掌する楽舞は国家的法会にも用いられた。天平勝宝4年(752年)4月9日の東大寺大仏開眼供養会では伎楽・舞楽が行われ、『東大寺要録』には伎楽、久米舞、楯伏舞、漢舞、唐古楽、唐散楽、高麗楽などの演目が見える[10]。このことは、雅楽寮のもとに整理された楽舞が、宮廷儀礼だけでなく大規模な仏教儀礼にも深く関わっていたことを示している[10]。
宮内庁三の丸尚蔵館は、東大寺大仏開眼供養会を、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が行幸して行われた、当時の楽舞の「集大成」ともいうべき最大規模の演奏と位置づけている[5]。また、正倉院には当時用いられた楽器や装束が伝わり、その華やかさを今に伝えている[7]。
さらに、天平8年(736年)には林邑の僧・仏哲らによって林邑楽が伝えられ、渤海楽・度羅楽も伝来した[7]。これにより雅楽寮が扱う外来楽舞の範囲はさらに広がった。
平安時代以降
平安時代以降は楽所や大歌所・歌舞所・内教坊などの令外官や、奏楽の職掌も負うことになった近衛府に押されて衰退したとされる。だが、実際には大同・弘仁年間に海外音楽の部門の充実が図られ[11]、その後も重要な公的儀式では令外官の演奏は許されず、律令官司である雅楽寮のみが演奏を担当することができたことから、『延喜式』や『西宮記』でも雅楽寮に関する記述が多くみられ、少なくとも11世紀初頭までは度々立て直しが図られてきた[12]。
平安遷都後に雅楽寮も京都へ移り、宮廷儀礼の再編のなかで雅楽の構成も整理された。笠置は、平安時代に雅楽が左方唐楽と右方高麗楽に整理され、後世の舞楽に見られる左右両部の構成が形づくられたと説明している[13]。宮内庁三の丸尚蔵館も、平安時代を通じて、奈良時代までほぼ原形のまま受容されていた外来楽舞が日本化され、現在につながる雅楽のかたちが整えられたとしている[14]。
平安前期には唐楽の輸入が続き、和邇部嶋継が「蘇合香」を伝え、また藤原貞敏が唐から琵琶の秘曲と楽譜を持ち帰ったとされる[5]。承和年間前後には、大戸清上、和邇部大田麿、尾張浜主らが楽曲の改作や新作に活躍し、この時期を楽舞の和風化が進む重要な時期とみることができる[5]。
平安中期になると、宮廷行事の整備に伴い、雅楽は四季折々に演奏されるようになり、宮廷人にとって「詩歌管絃」が必須の教養として浸透した[14]。この中で御遊が盛んに行われ、また催馬楽・朗詠などの宮廷歌謡も発達した[14]。同時に、舞は中国系の楽舞を左方、朝鮮半島系の楽舞を右方とする左右両部制が成立し、管絃も成熟した[14]。
やがて十世紀頃には、雅楽の相承の中心は雅楽寮から宮中の楽所へ移行した。初めは臨時的に置かれていた楽所が次第に常設化し、さらに南都や天王寺にも成立した[15]。楽所に補任された楽人は世襲化が進み、狛氏、豊原氏、安倍氏、大神氏などの楽家が形成され、現在に及ぶまで雅楽相承を担う基盤となった[15]。こうした再編は、後世の三方楽所や近世・近代の雅楽伝承の基盤にもつながったとみられる[16]。
近代以後
明治維新後、雅楽寮そのものは律令官司としては消滅したが、宮廷音楽を管掌する制度的伝統は近代国家のもとで再編された。塚原康子によれば、明治3年11月7日(1870年12月29日)に太政官内へ雅楽局が仮設置され、翌明治4年8月10日(1871年9月24日)には雅楽局を廃して式部寮雅楽課が置かれた[17]。その後、明治17年(1884年)には宮内省式部職、明治21年(1888年)には雅楽部、明治40年(1907年)には宮内省式部職楽部へと改組され、現在の宮内庁式部職楽部へつながる制度的系譜が形成された[18]。
雅楽局の設置に際しては、それまで京・南都・天王寺の三方楽所および紅葉山楽所に属していた楽人が東京に集められ、楽曲・奏法・流儀の統一が課題となった[15]。その結果、明治3年(1870年)および同20年(1887年)に曲目の選定が行われ、明治9年(1876年)と同21年(1888年)には規範とすべき楽譜集が編纂された。これが『明治撰定譜』であり、現在の楽部の伝承も原則としてこれに基づく[15]。
また、神楽・催馬楽・朗詠など、それまで公家が相承していた歌物も雅楽局に委ねられた[15]。さらに、雅楽局・雅楽課は従来の楽家出身者だけでなく一般人にも門戸を開き、同時に洋楽の伝習も命じられた[19]。塚原は、明治21年の官制改正において、雅楽部の職掌が「帝国楽及唐楽及高麗楽等」と「欧洲吹奏楽及欧洲管絃楽」とに整理されたことを指摘しており、近代の宮廷音楽機関が雅楽の継承だけでなく、西洋音楽をも担う体制であったことが分かる[18]。
その後、この伝統は宮内省式部職楽部を経て現在の宮内庁式部職楽部へ引き継がれる。近代以後の宮内省・宮内庁の楽部は、林廣守や東儀家など、近代以降の雅楽家を輩出した系譜として位置づけられる。
職員
雅楽寮の職員は、四等官、実際の音楽・舞踊を担う官人、そして伝習や雑務を支える補助的職員から構成されていた。とくに音楽担当官人は、在来歌舞を担当する歌師・舞師・笛師と、外来楽舞を担当する諸楽師に分かれていた。
四等官
音楽・舞踊担当官人
在来歌舞担当
- 歌師(うたのし)
- 歌人
- 歌女
- 舞師(まいのし・従八位上・田舞、五節舞など4つの分課がある)
- 舞生
- 笛師(ふえのし・従八位上)
- 笛生
- 笛工
歌師・舞師・笛師は、倭楽すなわち日本古来の歌舞やその伴奏を担当した。笛師の下には笛工が置かれ、楽器製作にも関わった。
外来楽舞担当
- 唐楽師(とうがくのし・従八位上・横笛、尺八など12の分課がある)
- 唐楽生
- 高麗楽師(こまがくのし・従八位上・横笛、鼓など6つの分課がある)
- 高麗楽生
- 新羅楽師(しらぎがくのし・従八位上・琴、舞の2つの分課がある)
- 新羅楽生
- 百済楽師(くだらがくのし・従八位上・歌、舞など6つの分課がある)
- 百済楽生
- 伎楽師(ぎのがくし・従八位上)
- 伎楽生
- 腰鼓師(くれつづみのし・従八位上・廃止)
- 腰鼓生
- 度羅楽師(とらのがくし・従八位上・新設)
- 林邑楽師(りんゆうのがくし・従八位上・新設)
唐楽師・高麗楽師・新羅楽師・百済楽師は、それぞれ大陸・朝鮮半島系の楽舞を担当した。伎楽師は伎楽を担当し、腰鼓師は呉楽系の腰鼓を担当したが、のちに廃止された。一方、奈良時代以降に新たに伝来した楽舞に対応するため、度羅楽師・林邑楽師が新設された。
補助的職員
- 楽戸 楽生の予備とされた品部、伎楽・腰鼓生は楽戸から採られた
- 史生 新設
- 使部
- 直丁
楽戸は楽生の予備的身分とされ、伎楽生・腰鼓生の供給源でもあった。史生・使部・直丁は、記録、雑務、使役などを担う補助的職員であった。