大榎克己

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愛称 克己
カタカナ オオエノキ カツミ
ラテン文字 OENOKI Katsumi
国籍 日本の旗 日本
大榎克己
名前
愛称 克己
カタカナ オオエノキ カツミ
ラテン文字 OENOKI Katsumi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1965-04-03) 1965年4月3日(59歳)
出身地 静岡県
身長 178cm
体重 71kg
選手情報
ポジション MFDFFW
利き足 右足
ユース
1981-1983 日本の旗 清水東高校
1984-1987 日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1991 日本の旗 ヤマハ発動機 54 (6)
1992-2002 日本の旗 清水エスパルス 252 (10)
通算 306 (16)
代表歴
1989-1993[1] 日本の旗 日本 5 (0)
監督歴
2004-2007 日本の旗 早稲田大学
2008-2014 日本の旗 清水エスパルスユース
2014-2015 日本の旗 清水エスパルス
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

大榎 克己(おおえのき かつみ、1965年4月3日 - )は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

清水市(現・静岡市清水区)に生まれ、地元の小学校選抜チームである清水FCから両河内中学校を経て、静岡県立清水東高等学校に入学した。同期の長谷川健太堀池巧とともに清水東三羽烏と称され、1983年度全国高等学校サッカー選手権大会優勝に貢献した。大会終了後には研修生という形で日本代表候補合宿に招集され、日本B代表の一員としてマレーシア遠征に参加するなど若年時から将来を嘱望された選手であった。

その後早稲田大学を経て1988年にヤマハ発動機サッカー部(現ジュビロ磐田)に社員選手として入部。同年12月に国内リーグを優先するという日本サッカー協会の判断で、日本が若手主体(大学生主体)のB代表で初めて参加したアジア杯では、日本B代表の10番を任され、高木琢也などと共に主力としてプレーするも、アジアの強豪相手に跳ね返された。1992年、Jリーグの設立に際して1991年に清水市で結成された市民参加型サッカークラブ清水エスパルスに入団した。高卒後それぞれ別のクラブでプレーを続けてきた長谷川、堀池とともに再び同じチームでプレーすることになった。リーグ年間優勝こそ獲得できなかったものの、1996年のナビスコカップ、1999年のリーグ戦第2ステージ優勝、2001年の天皇杯優勝に貢献した。 日本代表では1989-1993年にコンスタントに選出されるが、同時代にラモスなど読売/ヴェルディの選手が居たためか、出場機会には恵まれなかった。

ポジションは主にMFであり現在でいうところのTOP下など、日本代表も務めた全盛期には、ゲームメーカーとして活躍。相当のテクニシャンでどんなポジションでもこなせる器用な選手であったため、1996年からもボランチとしても活躍の場を広げた。DFとして出場する機会もあれば、後半からのFWとの途中交代でFWのスーパーサブとして得点を重ねた試合もある。

2002年にリーグ戦250試合出場の記録を打ち立てた後に現役を引退し、2003年にエスパルスのコーチに就任した。2004年からは母校である早稲田大学のア式蹴球部(サッカー部の正式名称、アはアソシエーションの略)監督として指揮を取り2007年度の全日本大学サッカー選手権大会において優勝するなど優れた成果を残した[2]2007年日本サッカー協会公認S級コーチングライセンスを取得している。2008年、清水エスパルスユースの監督に就任した。

2014年7月、成績不振で解任されたアフシン・ゴトビの後任として清水エスパルストップチームの監督に就任[3]。後半戦17試合で36失点と守備が崩壊し順位を下げるものの、最終節甲府と引き分け何とか残留を勝ち取った。

2015年、新体制発表会で、大榎自らが「優勝を目指すシーズンにしたい」と宣言したが、1stステージ最下位とクラブ史上最低の成績となった。2ndステージも指揮を取り続けたが[4]、開幕から4試合未勝利が続き、5試合目の横浜戦で初勝利をあげるものの、成績不振の責任を取り辞任した[5]。 その後、チームは降格圏を脱することが出来ず、J2に降格。チーム創設時の契約第一号選手が、チームを降格させてしまう不名誉な出来事となってしまった。

2019年1月、清水エスパルスのゼネラルマネージャーに就任[6]

エピソード

原則的に小学4年生以上で構成される清水市(現・静岡市清水区)の小学校選抜チーム・清水FCにあって、その才能が認められて小学3年生から練習に参加し、長谷川、堀池と出会った時にはキャプテンを務めていた。

清水エスパルスの契約第一号選手である。早稲田大学を卒業後、社員選手としてヤマハに入部した理由について「僕はサッカーだけで生きて行こうとは思わなかった」と語り、サッカーを引退した後は社員として会社に残る道を選んだのだが、プロ化が具体化するにつれて心が動いたという[7]

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯/ナビスコ杯天皇杯期間通算
1988-89ヤマハ14JSL1部16220
1989-9021250
1990-9117220
1992清水-J-940094
19933534341437
19942921010312
1995391-10401
199626116230453
199762805030360
19983015040391
1999J1902020130
20002726000332
20011102050180
20021807020270
通算日本J1 2521057925133420
日本JSL1部 54690
総通算 30616

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度クラブ背番号出場得点
AFCACL
2002-03清水610
通算AFC 10

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 5試合 0得点(1989-1990)[1]
日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
19894070110
1990100010
1991000000
1992000000
1993002020
通算 5090140

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1989年05月05日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-1横山謙三日韓定期戦
2.1989年05月10日日本の旗東京都国立西が丘サッカー場 中華人民共和国△2-2国際親善試合
3.1989年05月13日日本の旗岡山県岡山県総合グラウンド陸上競技場 中華人民共和国○2-0国際親善試合
4.1989年05月22日香港の旗香港 香港△0-0ワールドカップ予選
5.1990年07月29日中華人民共和国の旗北京 中華人民共和国●0-1ダイナスティカップ

指導歴

監督成績

年度所属クラブリーグ戦カップ戦
順位試合勝点ナビスコ杯天皇杯
2014J1清水17154310ベスト4
201517位22184612予選リーグ敗退

※2015年は辞任時点での成績

脚注

関連項目

外部リンク

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