大湯氏
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鎌倉中期に鹿角に入部し、室町~戦国期にかけては安東氏や津軽氏と結び、永禄元年(1558年)安東愛季の誘いに応じ名代の大高筑前と見参したり、同8年(1566年)秋田方の廻文に加判を行った一人として名を連ね、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあり、天正17年(1589年)南部信直の比内大館城攻めにはその麾下を務めている。
大湯昌光は、南部信直に仕え、大湯村及び近村2000石を領知し、大湯館城に住して、南部支族の毛馬内氏と縁戚を重ねていたが、天正19年(1591年)の九戸政実の乱では、兄弟相対峙する状況となり、兄の彦六(五兵衛)昌忠は信直麾下の包囲軍の中に、次子四郎左衛門昌次が嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門を伴い、同郷の大里修理大夫親治と共に九戸方の重鎮として荷担したが、大湯城は三戸方の大光寺正親勢の包囲攻撃を受けて落城した[2]ため九戸城に遁れたが、九戸城降伏のさい、政実ら主だった首謀者達として集められて栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑されたが、治郎左衛門、彦左衛門の兄弟は津軽へ落行、後に次(治)郎左衛門は召し出され知行200石を拝領し、彦左衛門は津軽に奉公した[3]。
系譜
参考諸家系圖 <<異姓之 >> 大湯氏 本名 姓 大湯五兵衛 昌光 ┏━━━━━━┻━━━━━┓ 四郎左衛門 五兵衛 昌次 昌忠 ┏━━━━┻━━━┓ ┃ 彦右衛門 次郎右衛門 多聞之助 昌到 昌吉 正邦 (津軽出奔) (津軽出奔仕津軽) ┃ 津軽家出仕 昌対 参考諸家系圖・奥南落穂集