天健金草神社

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所在地 島根県隠岐郡隠岐の島町都万砂子谷霊亀山4243[1]
位置 北緯36度12分20.5秒 東経133度13分51.2秒 / 北緯36.205694度 東経133.230889度 / 36.205694; 133.230889座標: 北緯36度12分20.5秒 東経133度13分51.2秒 / 北緯36.205694度 東経133.230889度 / 36.205694; 133.230889
天健金草神社

鳥居
所在地 島根県隠岐郡隠岐の島町都万砂子谷霊亀山4243[1]
位置 北緯36度12分20.5秒 東経133度13分51.2秒 / 北緯36.205694度 東経133.230889度 / 36.205694; 133.230889座標: 北緯36度12分20.5秒 東経133度13分51.2秒 / 北緯36.205694度 東経133.230889度 / 36.205694; 133.230889
主祭神 大屋津姫命抓津姫命譽田別尊[2]
社格 式内小社、旧県社[3]
本殿の様式 流造[4]
例祭 4月15日
地図
天健金草神社の位置(島根県内)
天健金草神社
天健
金草神社
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天健金草神社(あまたけかなかやじんじゃ)は、島根県隠岐郡隠岐の島町都万に所在する神社式内社(小社)で、旧社格は県社。

当社の祭神は神功皇后による三韓征伐の際に霊験を示し、仲哀天皇2年(193年)に幣帛を奉納されたと伝えられる[5]

日本三代実録』によれば、貞観13年(871年)に新羅に対する国防祈願の貢献により従四位下の神階を授けられている[6]。『日本紀略』によれば延喜6年(906年)にも天健金草命が大風によって「新羅賊船数艘」を退散させたことが記録され[7]天慶3年(940年)に従三位を授かっている[3]。この神階は熊野大社出雲大社を除けば山陰では抜きんでている[3]

寛弘3年(1006年)、現社地に遷座する[8]

中世には、隠岐に配流された後醍醐天皇が当社に還幸を祈念し、隠岐脱出がかなった際には正一位を授けている[9][注釈 1]。しかしこの時代においては併祀されている八幡宮が信仰の主体となり、さらにこの地域で高田神社が多くの人の崇敬を集めるようになっていく[10]

文久元年(1861年)の火災で社殿のほか宝物・古記録の多くを失う[11]。明治5年(1872年)、村社に、その後1934年(昭和9年)に県社に列せられる[11]

祭神

主祭神

以上の2柱は素盞鳴尊の御子神で、国土開発に尽力したのちそれぞれ「大屋仙洞」、「狭山湧水」に鎮座したとされる[5]。この2ヶ所は当社から数キロメートル地点に所在し、祭神の天降った神域とされていたが、やがて「八幡原」の地に当社が創建されここで奉斎されるようになった[5]。なお、地名の「都万(つま)」の由来を抓津姫命に求める伝承があるが、むしろ地名から連想されて抓津姫命を祀るようになったともされる[12]
合祀されている八幡宮の祭神のうちの1柱[2]

配祀神

合祀されている八幡宮の祭神のうちの1柱[2]
合祀されている八幡宮の祭神のうちの1柱[2]
合祀されている八幡宮の祭神のうちの1柱[2]
1917年に合祀された諏訪神社の祭神[2]。史実とは矛盾があるが、この諏訪神社は正治元年(1199年)に佐々木泰清諏訪大社から勧請したものという伝承がある[13]

施設

天健金草神社の境内
天健金草神社の本殿
本殿
3間社流造の銅板葺[14][注釈 2]で、規模は7坪[4]。軸立は元治元年(1864年)[4]。平面形態が隠岐造に類似することが指摘されている[15]
拝殿
入母屋造の黒瓦葺で、規模は11.5坪[4]。1917年(大正6年)の造立[4]
神饌殿
入母屋造の黒瓦葺で、規模は6坪[4]
隋神門
切妻造の板葺[4]
社務所
入母屋造の黒瓦葺[4]
境内社
武内神社(祭神:武内宿禰命[16]
春日神社(祭神:天児屋根命[16]
眞人神社(祭神:女神十五神)[16]
その他
材の明神鳥居1基[4]。灯籠・唐獅子各1対[4]
隠岐の島町都万八幡原に旧社地があり、礎石が残る[4]

脚注

参考文献

関連項目

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