妙国寺
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 妙国寺 | |
|---|---|
|
本堂 | |
| 所在地 | 大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4 |
| 位置 | 北緯34度34分52.2秒 東経135度28分53.3秒 / 北緯34.581167度 東経135.481472度座標: 北緯34度34分52.2秒 東経135度28分53.3秒 / 北緯34.581167度 東経135.481472度 |
| 山号 | 広普山 |
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 寺格 | 本山(由緒寺院) |
| 本尊 | 三宝尊 |
| 創建年 | 永禄5年(1562年) |
| 開山 | 日珖 |
| 開基 | 三好実休 |
| 正式名 | 広普山妙国寺 |
| 文化財 |
短刀銘国光、脇指朱銘長義(重要文化財) 蘇鉄(国の天然記念物) 庭園(市指定名勝) |
| 公式サイト | 日蓮宗ホームページ(妙国寺) |
| 法人番号 | 2120105001012 |
妙国寺(みょうこくじ)は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)の寺院。山号は広普山(こうふさん)。本尊は三宝尊。開山は日珖。開基は三好実休。妙國寺とも書く。幕末に起こった堺事件ゆかりの寺として知られる。

正親町天皇の永禄5年(1562年)、阿波国より兵を起こして畿内を支配していた三好長慶の弟・三好実休が日珖に帰依し、大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領500石を寄進し、日珖を開山とする当寺が設立された。しかし、同年3月の久米田の戦いで実休が戦死し、しばらく寺の建物は未整備の状態が続いた。
そこで、永禄9年(1566年)に日珖の父である堺の豪商油屋(伊達)常言、兄の常祐が協力し、境内に堂塔伽藍を建立して広普山妙國寺と称し、永禄11年(1568年)に完成した。寺名は日珖の師日祝の号である「妙國院」からとられた。後に皇室より勅願所に定められている。
元亀2年(1571年)に本堂竣工。天正11年(1583年)までに広大な寺地に14の坊、南北の学問所などを備えた伽藍が完成する。
慶長20年(1615年)4月28日、大坂夏の陣の際に、徳川家康が当寺に滞在しているとの話を聞いた豊臣方の大野治房隊によって焼き討ちを受け、全山灰燼に帰した。
その後、寛永5年(1628年)に本堂再建、続いて祖師堂、三重塔(明暦2年(1656年)の建立とされるが、堺市史では万治元年(1658年)に建立とする)[1]、寛文2年(1662年)に表門[2]、寛文5年(1665年)に書院[2]、元禄9年(1696年)に宝蔵[2]、正徳元年(1711年)に客殿と鐘楼[2]、方丈、勅使門、経蔵、徳正殿、その他支院等旧観を再現した。
しかし、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)7月10日の第6回大阪大空襲(堺大空襲)により、経蔵と大蘇鉄を残して三重塔以下全て焼失した。
霊木・大蘇鉄の伝説



境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物である。樹齢1100年余といい、次のような伝説が残っている。
織田信長はその権力を以って天正7年(1579年)、この蘇鉄を安土城に移植させた。ある時、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利(蘭丸)に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長も祟りを怖れ即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。これにより徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという。
出来事
境内
文化財
旧末寺
所在地
大阪府堺市堺区材木町東4丁1番4号
