妻科神社
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 妻科神社 | |
|---|---|
|
拝殿 | |
| 所在地 | 長野県長野市大字南長野字本郷219-1 |
| 位置 | 北緯36度39分13.0秒 東経138度10分44.4秒 / 北緯36.653611度 東経138.179000度座標: 北緯36度39分13.0秒 東経138度10分44.4秒 / 北緯36.653611度 東経138.179000度 |
| 主祭神 | 八坂刀売命 |
| 社格等 |
式内社(小) 旧県社 |
| 創建 | 不詳 |
| 本殿の様式 | 一間社流造 |
| 札所等 | 善光寺三鎮守・善光寺七社 |
| 例祭 | 10月1日・2日 |
| 地図 | |
妻科神社(つましなじんじゃ)は、長野県長野市南長野にある神社。式内社で、旧社格は県社。善光寺三鎮守(善光寺三社)・善光寺七社の一社。
祭神
歴史
創建
創建は不詳。社名「妻科」が示すように、当社は水内郡一の大社・健御名方富命彦神別神社(複数の論社あり)の后神の社と伝える。両社をして『日本書紀』持統天皇5年(691年)8月23日条に記載のある「水内神」とみる説もある[4]。
伝承では、建御雷神と争って敗れた建御名方神は出雲から海沿いに逃れて北上した。千曲川を遡って横山(善光寺付近)に辿り着いたところで追撃する建御雷神に迫られて応戦した。この際に后神は裾花川上流のこの地に戦火を逃れて隠れひそんだことから、この名称となったという。なお、この時に建御名方神は再び敗れて負傷し、上田の生島足島神社に逃れて養生をしてから諏訪に至ったのだとも伝える。
文献上の初見は、貞観2年(860年)に神階を賜ったとする『日本三代実録』の記載であるが、「妻科地神」と記されていることから当地の地主神であったと考えられている[4]。かつては本殿裏に接して「御宝塚」という古墳が複数あったと伝えられ西側の「宝塚通り」の道路名にもなっていて、当社はこの古墳への祭祀に発したとも考えられている[4]。「科」は更科・埴科・保科・仁科など信濃によく見られる字[5]で、「妻科」もまた古くからの地名であることを物語っている[4]。なお「つまなしのみや」あるいは「つまなし社」と記載する文献も散見されている[6]。
南方の長野県庁周辺では古代の集落跡(県町遺跡)が発見されており、当社との関係が指摘されている[4]。また神社境内からは黒曜石の鏃が見つかることがある。
概史
文献上の初見は『日本三代実録』貞観2年(860年)2月5日条。平安時代中期の『延喜式神名帳』には「信濃国水内郡 妻科神社」と記載され、式内社に列している。古来より当社は武井神社・湯福神社とともに「善光寺三鎮守(善光寺三社)」と称された。
明治6年、近代社格制度において郷社に列し、昭和6年に県社に昇格した。
神階
境内
摂末社
- 天神社
- 聖徳社
- 水神社
- 養蚕社
